八丈太鼓の由来について【 個人的考察 】

              
            
八丈`島仙郷誌 1952年(S.27.6.)四版 - 大脇旅館 

  [ 八丈太鼓の由来 ] について 解答を与えてくれる資料に 出会うことは できませんでした

   八丈島の 「 風俗 ・ 習慣 」 または
「 民謡 ・ 踊り 」 などの 記述の中で
           [ 八丈太鼓 ] についても 少し 書いてある と いうのが殆どでした
 
   太鼓についての記述は全くなく 太鼓を 両面から叩いている
       写真だけを 掲載して [ 八丈太鼓 ] と 説明 しているものも 多数 ありました

  「 各種文献 」 の 中 の 「 各種の説 」 を もとに 
        個人的に [ 八丈太鼓の由来 ] について 考え 少しまとめて見ようと思います

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
T 確かなことはわからないとしながら 大半が [ 流人 ・ 武士 ] と 結びつけて説明しています
  江戸幕府は 1606年 ( 慶長11年 ) 〜 1871年 ( 明治4年 ) の間に 
  宇喜多秀家 を始めとして 1,800余名の流人を 八丈島に送り込みました 初期の頃は 比較的に身分の
  高い者が 多かったところから 島人は 流人を 新しい情報をもたらす人 として 粗略に扱うことはなく 流人も 
  自分の持っている知識や 技術を 生活の糧とすると共に 島人に教え 伝えることによって 島の為に尽力しました 
  その結果 八丈島は 本土との交流もままならぬ離島ながら 早くから高い文化水準を示すことになったのです 
  そこで 「 この島の文化は 流人を抜きにしては語ることが出来ない 」 とまで言われています しかし
  
   [ 流罪となった武士が叩いたのが 八丈太鼓の始まり ] という説には 無理があるように思うのです
  流罪になったとはいえ 身分の高かった武士が 教養の範囲での 歌や 踊り などを 島人に 披露したり 
  教えたり した ことはあったとしても 当時 本土では 祭り や 盆踊り などの際に 庶民が叩いていた と
  思われる太鼓を 武士が 打つことなど あり得なかった でしょうから いくら 流罪地 でのこと とはいえ 自ら
  太鼓を 叩き始めた とは思えません また 島人達の生活でさえ 容易ではない 貧しい島に 流された流人は 
  まず生きるための 食糧を 確保しなければならないという 厳しい生活の中で 太鼓を叩く 余裕などは
  なかったと思います しかし 長い間 この島で生活していれば 元は 高い身分の武士であっても 時には 
  島人とともに 焼酎を酌み交わし 太鼓を叩いて楽しむ というようなことは あったかも知れませんし 
  [ 流人の中に 太鼓を叩ける者がいた ] という可能性は 充分考えられます

   観光宣伝用等で八丈太鼓を 「 昔 流罪となった武士が ・・・」 と 紹介されることが多いのは 短く簡単な説明の
  わりに 「 かつて八丈島が流罪地であった 」 という 人々の知識と あいまって 素直に受け入れられるうえに 
  なんとなく 重み を加える効果まで 期待できそうだから ではないでしょうか 
   昔は 優しく叩いていた太鼓も 最近は 力強く 勇壮に 叩かれることが 多くなり 若者の見事な桴
捌きを 
  目の当たりにした人達 ( 観光客 ) は [ 武士が ・・・ ] という紹介に 納得してしまいます

   太鼓の響きは 打つ人 ・ 聞く人 の想いによって あらゆる 感情移入 が 可能です そこで 「 流人が 怒り や
  哀愁 望郷 の想いを込めて打った 」 と説明されれば その太鼓の響きの中に 人間 ( 流人達 ) の あらゆる
  怨念 情念 が こもっているように聞こえて 遠い昔の 流人の身に思いを馳せ 胸を熱くする人も いるでしょう 
  これも [ 流人が ・ 武士が ・・・ ]  という説に 真実味を 与える役目を 果たしているようです

U 伊豆の島々は 西日本から 黒潮の季節風によって 漂流する船にとっては まさに
  本土の中心部から 南へ 長く 垂らされた 救助の網 であったといえます 
  漂流者にとっては この いずれかの島で 救助されるかどうか ということが 生死の分かれ目 と なって
  いましたから その南の果てに位置する 八丈島の役割は 特に 重要だったようです
   船の強度も充分ではなく 航海術も確立していなかった頃の航海は 常に 自然の脅威に 翻弄される
  ものだった と 思われます 海の女神に捧げ物を供え 海路の安全と 目的地の港へ無事入港できるよう 
  ひたすら 祈りながら の 航海だったのでしょう  時には 海が荒れ狂い なすすべもなく 荒海に投げ出されて
  しまった人も 数多くあったと思います そんな漂着者が 運良く流れ着いた この島で 自分の故郷の太鼓を 
  叩いて聞かせたり 島人と一緒に 叩いた太鼓が 現在まで 叩き次がれて きているのでしょうか

    八丈島の太鼓は 最も日本的な 深い重みを 感じさせる響き と 拍子 を もつ太鼓と
  南方系のものではないか と思われる 底抜けに明るく 軽快な響きと 拍子をもつ太鼓が 共存しているように
  思います この 思わず身体が動きだし 打ち手と一緒になって かけ声をかけ 囃したてる 
  解放的 ・ 情熱的な太鼓の響き と 拍子を 聞いていると 本土からの 漂着者ばかりでなく はるか
  南方の国々から 命からがら 流れ着いた人 もいて そんな 異国の漂着者が 自分の国の太鼓を
  島人に 伝えた ・ 教えた あるいは 影響を与えた太鼓 なのかも知れません

V  [ 庶民の 楽しみとして 生まれた のではないか ] という説は もっとも 真実に近い ような気がします
  貧しい 日々の生活に 追われ 特に これといって 娯楽もなかった頃 なにかの 折々に 太鼓を叩き 囃し 歌って 
  日頃の疲れを 癒していた のが この島の 太鼓の始まり では ないでしょうか 八丈島で
  叩き継がれている太鼓は 小さな太鼓を 優しく叩く太鼓 ・ 女童に よく似合う太鼓のようです この島の人達の
  気風は 温暖な気候に 育まれ とてもおおらかです 特に 女性達は 陽気で 開放的なように思います 
  昔 八丈島は 絹織物を 献納 していましたから その織り手である 女性が 大切に優遇されていた こととも 
  大いに関係があるようです とにかく 素面で 太鼓を叩く ことなど 恥ずかしくてできない 男性達よりは 
  女性達の方が はるかに 積極的に 叩いていた ように思います

*  太鼓の音を 「 懐かしい !」 と思うのは 胎内で聞いた [ 母の鼓動 ] を 思い起こさせるからだ と
  言われています また 太鼓の音は 聞く人々を 鬼 や 神 の 住む 他界へ いざなう 様々な 霊 との
  交信 を 可能 にする 神秘的な力 をも 備えているようです

    太鼓は 打つ人が 自分の気持ちを 込めて 叩けば それに応えるように 鳴り響きますし 
  自分の気持ちを 大切にして聞けば そのように聞こえます このような太鼓を 大自然の 特に 
  波の音を 背景に 月の光に 照らされながら 叩いたりすれば 焼酎と 太鼓の響きに 酔いしれた 人々は
  厳しい現実 を 忘れ 魂 も さまよいだして この世 と あの世 の 堺で遊ぶ という 
  まか 不思議の ひととき を 過ごすようなことも あったのではないでしょうか


        
  「 付  記 」
 
太鼓の練習を始めたばかりの時は ただただ 太鼓を叩くことに気を取られていたのですが そのうち 
八丈太鼓について 書いてあるものや 写真 太鼓に関するものは 量の多少 内容の濃淡にかかわらず 
目につく限り集めるようになりました それほど熱心に収集していたわけではないのですが 年数が経ち 
気がつくと かなりの量になっていました

 太鼓の由来について 調べればわかるだろう ・・・ と 強気でここまで書いてきたのですが 「 八丈島のこと や
太鼓のことについて あまりにも知らなすぎる 」 と いうことが やっと ,,, 少し ,,, わかって ,,,,, 困っています 
「 知らないことは 知らないままにしておいても よかったのかもしれないな ー ・・・ 」 という気がしてきました
人生の半ばをすぎてから この島に住むことになった私が とんでもない勘違いや 思い込みをしていたから といって 
直接 お叱りを受けることもなく 特に 不都合はなかったのですから 無駄なことはしないで これまでのように
「 太鼓が 叩けるようになることだけを目標に ただひたすら 太鼓に向かっているべきだった ・・・ 」 と
どんどん 弱気になってきてしまいました 

 でも ・・・ 知りたい と思った結果 【 八多化の寝覺艸 】 や 実際に 見たこともない状態で太鼓を叩いている
貴重な写真に 出会うことができたのです これに励まされ 今まで 手に入りにくいため 諦めていた文献も 改めて
探し始めたところ 色々新たな ・ 珍しい文献に 出会うことができ 手元にある 資料の分量 と 内容 を
豊かに することができました 一つ一つの資料の中身は 例え 簡単で 断片的なものでも 特に
充実していなくても たくさんのものが集まることによって 一つ一つが ばらばらの時には
見えなかったことが お互いに 重複したり 補い合って 自然に 見えてくることがある 
ということを知り 大変驚きました
 また
 
  [ あること ] を 一つの資料が 完璧に伝えている ・ 記録している ということは ほとんど無い
いうことや 明らかな間違い ・ 勘違いの記録も 決して少なくないということもわかりました [ あること ] を 
正確に伝える ・ 記録する ということは それほど難しいことなのだ ということを 教えられたような気がします

 八丈島関係の文献は実にたくさんありました そんな 多くの文献の中にも 目的が異なるために 
太鼓について 全く触れていないものがあり とても残念です しかし もっと もっと 残念なのは 民謡 や 盆踊り に
情景 にまで筆が及びながら そんな時には きっと叩かれていた と思われる 太鼓について
まったく触れていない ものに接した ときでした

 ほとんどの文献は この島で叩かれている太鼓について 触れています でも 
太鼓について 焦点を合わせて書かれたものはありませんでした ずっと 昔から 見よう見まね 口伝えで 
叩き続けられてきた 太鼓 としては 書き記されたものなど ない方が むしろ 自然 ・ 当然なのでしょうが ・・・・・

                                                  井上洋子 記
 


 1p 八丈太鼓 の 由来 top  2p 八丈太鼓 由来の 「個人的考察  3p 「 由来 以外 」 の 八丈太鼓
 4p 「 八多化 の 寝覺艸 」  5p 「 近藤富三 」 と 「 鶴窓帰山 」  6p 各種文献から 興味深い記録
 7p 「 昔 の 八丈島 」 について   八丈島を訪れた 四人 と 一団体   ある機関誌より − 転記


 へん子の日記  紅陶庵  あが八丈太鼓  八丈島の太鼓  八丈太鼓と私  写真

 くれない TOP に戻る


            
             八丈町勢要覧1967(S.42.) - 東京都八丈町役場