独断と偏見で
       八丈島を訪れた「 四人 」 「 一団体 」 に ついて

1 島木赤彦
   「アララギ」の基礎を築いた歌人 島木赤彦は39才 1914年(T.3.)10月 都会の喧騒で心身共に疲れはて 
   複雑な女性関係や行き詰まった生活から逃れるように 半永住の夢を胸に秘め 一人寂しく八丈島に渡りました

     ・まことにも島に来つるか眼の前の山みな揺れて近づく我が船(接岸目前)
     ・椎森の眞昼の空の明るみに烟
一すじ立ちのぼり見ゆ(79主目)
 
   豊かな自然と 情熱的で 典型的な 八丈美人の 山下てい(未亡人)30才の 親身な世話によって
   疲れを癒すことができ 徐ゝに生気を取り戻しました

     ・椿の蔭おんな音なく来りけり白き布團を乾しにけるかも
     ・はらはらと布團をすべる椿の花土にぞ止まる昼は深けれ

   これまでの束縛をいっさい捨て 新たに歌一筋に生きる決意を固めた赤彦は 結局 この島に20日間滞在し 
   79首の短歌を詠みました 翌年の3月 [馬鈴薯の花] に次ぐ歌集 [切火] を発行 263主中・
   制作年代順であれば 巻末におかれるはずの 「八丈島」 を巻頭に据え
   平福百穂の ‘島の女’ を 口絵にしていることからも 島木赤彦の 八丈島に寄せる深い想いが感じられます

    ◇ 1975年(S50.) 「 赤彦の歌碑を建てる会 」 が結成され 具体的に決まりかけた直後 
            台風13号で 島が 多大な被害を受け 中断せざるを得なかった
    ◆ 2003年(H.15.)5月23日 - 南海タイムスより
           島木赤彦の歌碑を建立 ( 八丈島ライオンズクラブ 結成30周年を記念して )
                     【 椿の蔭 おんな音なく 来りけり 白き布團を 乾しにけるかも 】
               場所―大里 ふるさと村 駐車場 アララギ(イチイ)の木を10本歌碑の背後に植えた
        
   
 
太鼓のことを詠んだ歌は 残念ながら一首もありませんでした 大賀郷の大里で行われていた
              島の女達が踊るのを見て詠んだ歌 を 全編書き記します
    ・堂庭に踊る島子をかぞふれば七人だまり月の下びに
    ・踊り子のおどる後は椿の木かぐろみ光り月の下びに
    ・女一人唄うたふなる島踊りをどりひそまり月の下びに
    ・はるばるに波の遠音{とほと}のひびきくる木のかげ深く月夜の踊り
    ・黒ぐろと夜を濡れ光る椿の木いたも更くるか月夜の踊り
    ・月の下の光さびしみ踊り子のからだくるりとまはりけるかも
    ・大海のまん中にして島なるや(この村の)流人踊りは悲しきろかも
    ・秋もはや今宵を踊りおさめなる後の月夜の更けにけるかも
 
     * 〈 島木赤彦 〉 について 参考文献
 
      イ 筑摩現代文学大系 15 1978年(S.53.2.) - 筑摩書房
       ロ 1978年5月7日 文化パトロ-ル 8 - 南海タイムス
       ハ 島木赤彦 1981年(S.56.8.) - 桜楓社
       ニ 評伝 島木赤彦 1983年(S.58.8.) - 令文社
       ホ 島木赤彦全歌集 1986年(S.61.3.) - 岩波書店

2 野口雨情
   1930年(S.5.)の8月 八丈島の芸能保護に力を注いでいた 故茂手木八百一氏に招かれ 
  八丈島を訪れた 野口雨情は この島の代表的な民謡である 「太鼓節」 や 「ショメ節」 の歌詞をいくつか残し 
  レコードも作成した たった8日間という 短い滞在期間だったにも関わらず 
  八丈島の歴史 人情や風俗、習慣 などを よくふまえて 作詞されていることに感心し 驚かされます 
  島人達ですら あまりにも 島民の細やかな心情が詠いこまれているため 昔から この島に歌い継がれて
  きた歌詞だ と 錯覚してしまうほどです そして これらの  「太鼓節」  「ショメ節」 の歌詞が 
  野口雨情の作だということは あまり知られないまま 島民に親しまれ 今もなお愛唱され続けています

 「太鼓節」
   三根倉の坂さか真ん中でナー 出船眺めてそでしぼる
               【
1987年(S.62.)6月6日 三根倉の坂に詩碑を建立 】
 
  ・太鼓節を歌う人は 二本目には必ずこの歌詞を歌う といっていいほどです
 
  ・船が島を離れて行くときには 乗客や乗組員との別れを惜しんだり 赦免を受けた流人を見送る
     水汲み女や その縁者の悲しみは大変なものだったと思われます 港に集まった人々は船が進むのに
     つれて坂道を登りながら 涙をぬぐい手を振り いつまでもその場を立ち去りかねていたことでしょう

  ロ ついておじゃれよ 八丈ケ島へ ナー 荒い風にも あてやせぬ
  ハ 八丈神港にゃ 四ツ瀬が御座る
ナエー 思い切る瀬と 又きらぬ瀬と
                                    
来ては逢瀬と あはぬせと

 「ショメ節」

  イ 南風だよ皆出ておじゃれ 迎え草履の紅はな緒

                  【 1988年(S.63.)5月18日 南原の千畳敷に詩碑を建立 】
    ・八丈島の始祖伝説 「蓁の除福」 説が土台になっていると思われます
     男女一緒に住むと 海神のたたりがあるといって 八丈島の女性と 青ヶ島の男性が 一緒に住むことは
     禁じられていましたが 子孫が絶えることのないように 年に一回の 逢う瀬だけは 許されていました 
     八丈島の女達は 四月頃になると 工夫を凝らして草履を作り 浜辺に並べて置きます 一方 
     青ヶ島の男達は 南風が吹き始めると船を漕ぎ出し 浜辺に並んだ草履を履きます
     女達は 自分の作った草履を履いた男の妻として 一夜を共にすごすというものです

  ロ 月が出ました大根の沖に 今夜おどらでいつおどる
               
【 1992年(H.4.)5月24日 底土港の待合所横に詩碑を建立 】
    ・ 【 夫婦岩 ( 大根 ・ 二升台 ) 】 を バックに建てられ この時期 月は碑の真後ろから出てきます
     雨情がこの島にきた頃は 底土の海岸沿いはずっと松林が広がっており 
     手で抱えきれないほど 太い松も たくさん生えていたようです 
     雨情は 月あかりの下 松の木に太鼓を吊して 島の老若男女が 叩き 歌い 踊っている のを 見て
     この詩を作ったのでしょう 雨情も 島人と共に 焼酎に浮かれ 叩き 歌い 踊った かも知れません

  ハ 三原山所の雑木の中で 赤い椿のはなも咲く
  ニ  つれてゆくとてまただまされた わたしゃ底土の捨て小船
  ホ 八丈八重根のあと追い千鳥 船も出たじゃになぜ知らぬ
  
ヘ だれに迷うたかひと本桔梗 広い裾野の中に咲く
     野口雨情が 稲田カエさんに贈った歌詞です

 
野口雨情(1882〜1945年)は 大正中期の民謡 や 童謡が 盛んに歌われ もてはやされ始めた頃 
    北原白秋 西条八十 らとともに活躍した詩人です 赤い靴 ・ 七つの子 ・ 雨降りお月さん ・ しゃぼん玉 ・
    証城寺の狸囃子 ・ 船頭小唄 ・ 枯れすすき ・ 波浮の港 ・ 船頭小唄 などの詞にみられるように 
    日本人の心に深く根ざした 素朴で ゆったりとした 田園的情緒を主体にした作詞が
    中山晋平 本居長世 の作曲と相まって家庭に安心して親しまれる多くの作品を残しています また 
    詩作の間に全国各地を講演してまわり 童謡・民謡の普及に尽くした功績も大きく評価されています

      *
〈 野口雨情 〉 について 参考文献
       イ 世界大百科事典 24ネ-ハト1972年(S.47.4.) - 平凡社
       ロ 1977年(S.52.) 10月19日 パトロ-ル - 南海タイムス
       ハ 1987年(S.62.) 3月15日 野口雨情歌碑建立 - 南海タイムス
       ニ 1987年(S.62.) 6月14日 野口雨情歌碑建立 - 南海タイムス
       ホ 1988年(S.63.) 5月22日 野口雨情歌碑建立 - 南海タイムス
       へ 1992年(H.4.) 5月24日 大根
背に雨情歌碑 - 南海タイムス
        ト 八丈島青ヶ島碑文墓誌集成 1990年(H.2.10.) - みずうみ書房

  【太鼓叩いて人様寄せて わしも会いたい人がある】 を 
         雨情の作だと思っている人がいますが 雨情が来島する以前の文献に記録があります

  
参考 1 八丈嶋 1914年(T.3.) 青木秀虎著 - 國文館書店
         
49頁・・・「太鼓叩いて人様寄せて 妾も合ひたい人がある」・・・
      2
八丈嶋仙郷誌 1928年(S.3.3.) - 黒潮會
         
65頁・・・下田宵たちゃ夜中は三宅、明けりゃ八丈の灘を乗る
                 走ろ船にか、わりゃ乗りたけが、後の見られろ様故に

              
「太鼓叩いて人様寄せて、わしも逢ひたい方がある」
 
3 高石ともや 
  
 1979年(S.54.)2月4日 「 高石ともや 八丈太鼓 に 魅かれ 」 - 南海タイムスの記事 より
      ・・・高石ともやは 「八丈太鼓ばやし」 を 歌いたかった動機を次のように付記している。
      「 この曲を何としても歌いたかったのは 最初の歌詞だ。
       ‘太鼓叩いて人さま寄せてよな・・・,この文句にまいったものだ。 
      日本民謡の嫌いな点は 正調などと作り上げて、家元制度のように歌い方まで規制されることである。
      八丈島の場合、最も有名な ショメ節 にしても、この 太鼓ばやし にしても まさしく
      民衆のための民謡の歌われ方である。 」・・・

  ロ 
1979年 SONG BOOKシリ-ズ VOL.9 [ 八丈太鼓ばやし ] - 東芝EMI株式会社 より発売 
       -- 地方の古い歌編 -- に ・・・たとえ細々とでも地方で自力で生き残っている歌である という意味を
     含めたつもりで “地方の古い歌” としました。 ・・・長い間、土に育ち人々にもまれ育った歌を 歌うとき、
     また歌い変えるとき、それにふさわしい配慮がいります。 まったく歌い手や 演奏者の技術をひけらかす
     ために古い歌を利用しているうちは、どうも歌は生き返ってくれません。 
     ぼく達より何倍も生きてきた歌達です。 彼らがより現在に生きるように心遣いすることで、
     歌は聞く人々の身体の中を走り 本性の血に出会って踊り出します。 「民謡というものは土の中から
     生まれてきたもので、 もともと三味線とか尺八とか笛などついていないものです」 高橋竹山さんの言葉です。 
     古い型に執着し 研究の対象、基準とするのは 民謡研究家や愛好者の重要な世界です。しかし現実に
     生活している人の前で演奏し続けている者にとっては、古い型より 今に生きる型の方が 基準になります。
     古いものに取り組むのは、古いからいいと思うからではない。
     過去の懐かしさに安住しょう というつもりもない。彼ら古い歌達が現代にはつらつと生きているからなのです。
     力の弱い歌は いつの世も消えていきます。今に残っている歌は それだけでも 充分たくましいのです。

   波の音(響き)を背景として 哀愁を帯びた 大変美しい歌になっています 
       古いものに固執して 少しの変化も許さないでいると 新しい人の興味を引くことができません 
       古くからのものを無視して 大きく変えてしまえば 全く別のものになってしまいます やはり 
       古くからのものを理解し 尊重した上で 今 にも魅力的であるように 少しづつ変化させることは 
       必要なことでしょう 八丈太鼓をこれからも叩き続ける私に 大切なことを教えてくれています

4  加藤登紀子
 
イ 1979年(S.54.)7月15日 「 太鼓のカエさんら 登紀子のコンサ-トに ゲスト出演 」 - 南海タイムスの記事より
      「 八丈島に 太鼓叩きのすごいおばあちゃんがいる 」 と 歌手の加藤登紀子さんに紹介したのが、
     太鼓を主とした 民俗芸能を育てる研究活動で有名な 鬼太鼓座{おんでこざ}・・・コンサ-トの ゲストに
     八丈太鼓の出演が 企画され その打ち合わせのため先月、初めて本島を訪れ カエさんと 歓談した。
      「この島の人にはどこか毅然とした強さがある。おカエおばさんと八丈太鼓の響きにとりつかれてしまった」と
     感激の加藤さんは、また八丈太鼓愛好会のみっちゃんこと 浅沼亨年さんらの案内で 富士中の太鼓練習場も
     訪れ、若い衆の打つ太鼓に すっかりのってしまったようす。会員に望まれるまま自分のレパ−トリ−六曲を、
     ギタ-片手に力いっぱい歌うサ-ビス。 愛好会の人達は 「こんな舞台もなく、音響設備もなく、観客も少ない
     ところで あんなに一生懸命歌ってくれるなんて・・・・・・・・さすがですね 」と 大感激。・・・

 ロ 1982年(S.57.2.12.) 鼓動 第四号 春 - 佐渡國鼓動 の 機関誌 より
    ・・・音楽なんてのはね、ず-と昔から、やっぱりものすごく大胆にこわす ところから 始まるものだと思うの。
    「 保存する 」 みたいな感覚ってのは、それはもう 民俗学者にまかせておけばいいんだけど、私はやっぱり
    今、 自分が楽しいために音楽がしたいわけだから・・・鼓動は、日本の民俗芸能を、ある程度コピ-しながらも
    自分流に 取り入れてから、吐き出す という作業の上で 表現として出しているでしょ。 それがすごくいいわけ。 
    片方では ただえんえんと 叩いていれば 気がすむっていうかサ、そういうものも あるわけだし。 たとえば
    八丈のおばあさんの 太鼓 とかネ、その人の生まれ育った その土地の風土の音が、一人の人間の個性
    なんていう、ちっぽけなものを、ひょいと越えちゃって、風や雨と同じように、出てくる。人に見せるとか、
    聞かせるとかも関係なく、ぞろって、こう、叩いちゃっているっていうか、もうそれは一つの風景なのよね・・・

    旧富士中学校(現在の富士グランド)取り壊し寸前の細長くてボロボロの体育館で練習をしているところに 
     登紀子さんが訪れました
 「太鼓を叩きたい」 という人はたくさんいるのですが 気軽に桴を持って一緒に叩く
     人はあまりいません 登紀子さんは 愛好会の人達が叩く太鼓を聞く。 見る というよりは みんなと一緒に
      熱心に叩きながらも 楽しんでいらっしゃるようでした 
         練習が終わると 気軽にギタ-を抱えて 床に座り 「 響きが良くて とても気持ちがいいワ 」
              「 何だか 上手に聞こえるワネ 」 と 周りを見回しながら 歌ってくださいました 
                       ( 大好きな ‘一人寝の子守歌, を リクエストし 間近でしみじみ聞きました)

5 鬼太鼓座 { おんでこざ } 〜 鼓動 へ
 イ 
1982年 (S.57.6.1.) 鼓動 第五号 夏 - 佐渡國鼓動 の 機関誌 より
                  「 八丈 」 --- 太鼓の内に人の住む ---  富田和明 記

    ・・・大地が生まれ、人がうまれ、太鼓が生まれた。
     ゆっくりと大きな時の流れの中で 人はもまれ 育まれ 太鼓もその渦中で人と共に生きてきた。
     今、いたる場所{ところ}で さまざまな太鼓が生まれているが、 八丈太鼓は、一つの太鼓を二人で叩き、
    打ち手の想いの生まれるままに 自由に打ち込むことのできる太鼓、である。そこには太鼓の原点がある。 
    ・・・カエさんの太鼓を聞いていると、 なぜかとっても楽になる。70年以上もの間叩き続けた、その年齢の
    成せる業でもあろうか、 身体の芯から音が湧き上がって、、、、というより、もう、太鼓の内に住んでいる
    のではないかと、思わせてしまう程だ。 八丈の太鼓は、神社や寺の行事とか、祭りの為の太鼓ではない。
    ・・・太鼓を叩き出すと人が寄ってくる。 きっと島中でそんな風になっているのだろう、年に一度の 祭りの為
    ではなく、その日その日の 島の人達の楽しみ なのではないか、カエさんの太鼓は 94歳の音がするし、
    菊池さん兄弟の鼓は、 力のある若い声が腹の底に響いてくる。 一バチ 一バチに ズシン と重みがあるが、
    決して重たくはなく、むしろ軽く リズムが踊っている様だ。 太鼓というのは不思議だ! 得体が知れない。
    人の心を 裸にしてしまう力 を 持っているのだろうか。 ・・・太鼓を打つことで、その人自身が素直に
    飛び出して来ている様に見える、普段身に着けている 色々な着物や 飾りを脱ぎ捨て、
    裸になって、、、、、キレイダ と、思った。・・・

   1982年(S.57.)1月27日 鬼太鼓座から 鼓動へ の 躍動期 に
      藤本吉利 富田和明 十河伸一 山口経生 大井キヨ子さん達が 元座員の 菊池隆さんを訪ねて
      来島 我家でも 太鼓を囲んで 楽しい一時をもつことができました まだ 太鼓の練習を始めた
      ばかりだった私は その青年達の 太鼓へのひたむきな情熱と 礼儀正しく 謙虚な姿勢に
      圧倒され 「 なんて 気持ちの良い若者達だろう 」 と 自分の心までも洗われるように感じました 
      それ以来 鼓動の活動について 他人事と思えなくなってしまい 遙か 八丈から 応援し続けています
                                   
                                                              井上洋子 記


 1p 八丈太鼓 の 由来 top  2p 八丈太鼓 由来の 「 個人的考察 」  3p 「 由来 以外 」 の 八丈太鼓
 4p 「 八多化 の 寝覺艸 」  5p 「 近藤富三 」 と 「 鶴窓帰山 」  6p 各種文献から 興味深い記録
 7p 「 昔 の 八丈島 」 について   ◇ 八丈島を訪れた 四人 と 一団体   ある機関誌より − 転記


 へん子の日記  紅陶庵  あが八丈太鼓  八丈島の太鼓  八丈太鼓と私  写真

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