八 多 化 の 寝 覺 艸 { やたけ の ねざめぐさ }
                            著者 - 鶴窓帰山 1849年(弘化5年)刊行

  八丈島 で 叩かれていた 太鼓 に ついて の       
                   最も 古い記録 と いわれている 本

    

          さし絵  【 婦人盆中太鼓打図 】

☆ 太鼓に関する記述 を 本文より

  ・・・ 盆中、牛の角突きあり。男牛を引き出して、双方より二疋合わせて、角突きのセうぶを
     させる。
島人、物見遊山といふは、盆踊りと牛の角突より外はなし。又、たまさかにハ、
     素人角力をもよほす事あり。老若男女皆、にごり酒、いも、さかなを持て見物に出る。
     かたハらに太鼓を松{ まつのき }につるして、女の子どもよりあふて、
     うら表から打はたく。つがるといふうた太鼓のひょうしにのせて唄う。
     又、盆踊りの手つきハ橋の上に放し亀をつるして御客をまつにことならず。実{げ}に
     ひなびたる大踊りなり。島人ハこれを見てよろこぶ事、大和やに音羽屋と成駒やの
     所作事より、このおどりハおもしろき事なりと自慢するこそゼひなけれ。・・・・・
                 の 記述 と上記の さし絵 が 挿入 されている

  ☆  「 八多化の寝覺艸 」 の 本文 より   太鼓 と 盆踊り の 図

       
〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜・・〜
 *   島人は 盆踊り のように 多勢の 人が 集まる ときには その広場の 側に はえている
    松の木の 手ごろな 枝に 太鼓 を 吊して 叩いていた ようです 太鼓 の 周り には
    女性や子供が 寄り集まって ( 先をあらそうように ) 両面から 叩いたり 拍子に 合わせて 
    【 つがる という唄 】 も 歌った ようです さし絵に 二人の女性が 両面から 太鼓を 打っている
    様子が 描かれている ことからも この島の太鼓は かなり 特殊な太鼓 なのかも 知れません

   *  【 つがる と いう唄 】 
         太鼓を打ちながら その 拍子に合わせて 歌う唄 を 昔は 「 つがる(節)」 と いい
        明治末期から大正時代は 「 太鼓甚句 」 そして 今は 「 太鼓節 」 と 呼んでいます
        「 太鼓甚句 」 は 今の 「 太鼓節 」 と ほとんどかわりがなく 「 つがる(節 )」 は 現在
        歌われている 「 太鼓節 」 とは 歌詞 ・ 節 ともに かなり 異なっていたようです


 イ 「 八多化の寝覺艸{ やたけのねざめぐさ }」 について

        著者 - 鶴窓 帰山 {かくそうきざん}    刊行 - 1849年( 弘化5年2月16日 )
 〈 形態 〉
    ・ 25丁からなる小冊子 木版 和綴じ の 堅本 ( 縦23.4cm × 横16.5cm )」
    ・ 全文 行書体 漢字混じり の ひらがな で 書かれており 重複の漢字や数字以外の 
                     すべての漢字に ふりがな が付けられている

 〈 内容 〉
     ・ 本文は まず 八丈島の 位置から 説きおこし 地理の 概要から 初め 村落 ・ 神社 ・ 寺 ・
        渡海船 ・ 労役 ・ 食物 ・ 耕作 ・ 漂流 ・ 交易 ・ 動物 ・ 建物 等 多くの分野に 及んでいる 
        次に 方言には 約三丁を費やしているが これは言語研究の資料として 貴重な記録である 
        そのあとに 流人の生活が いかに 苦しい ものであるか を 述べ 言葉を 尽くして 子供達を
        いさめている それから 島酒 の ことに触れ 島 の 歌 と 踊り には 約三丁 を あてている

    ・ 江戸末期 の 庶民 の 生活振り が 多岐にわたり 具体的に 記録されている
    ・ 著者自身 の 筆 による さし絵 ( 約五丁分 ) も 素人 の いき を 脱している
 〈 著作の意図 〉
   ・ 自序文より - - -
           この島、国地より 遠き波路のはてなれば、此しまの風俗のかはりたるもの多かりぬ。 
           されば、此のしまの風俗のめずらかなることぐさ、なにくれと書集て やがて 目出たく
           ふるさとへ帰る時の家づとにせんものと、春の日のながながしきに、眠りを覚まし、
           出船の日和をまつの戸に音づれわたることわざのまにまにかいけつ侍るつたなさよ

   ・ 赦免になった ときに 故郷への みやげ話 にしよう と 思って 書いた
   ・ この島の 特異な風物 や 生活習慣が 物珍しく 書き留めずには いられなかった
 〈方言〉
    ・ 末尾 に 収められている 「 痴話文 {ちわぶみ} 」 -- 恋文形式
                    「 老夫婦 の 口争い 」 - -- 夫婦対談形式
    ・ 異本 に 収められている 「初出祝 {ういでいわい}」 - 問答形式

    * 文章の形で 八丈島の古い言葉を 記録しつくしており 他に例をみない 
            言語(語法) 風俗 習慣 などの研究 に 具体性を持つ 貴重な文献である

 ロ  鶴窓帰山 - 「八多化の寝覺艸」の著者 に ついて

       ・ 本名 山口 五郎左衛門
              生来 多芸多能で 計算をしたり 文を 読み書きすることに 秀でており 
              俳諧を好み戯作・浄瑠璃本なども制作した

   * 在島中は 絵を描いたり 彫刻をして 生活物資と交換したようです 小さな木魚を彫刻したり
            包丁の妙技も発揮したそうですが 残念ながらその小さな木魚は現在この島に残っていません

   * 水汲み女と暮し 子供もいたが (母と子の氏名は わかっていない)
                        待ち望んだ赦免にあたり 母子ともに島に遺して国(故郷)へ帰るさい

  -----  御赦しかうぶりて 愛子を島に残すことを  -----
    〔 豆腐屋が豆でころげるひと昔 八丈ヶ島に残す卯の花 〕 と 
                                       惜別の情を狂歌に託しています

       ・  鶴窓 帰山{かくそう きざん}
                「 故郷 に 帰りたい という 気持ち 」 を込めて つけた と 思われる
              原文の末尾に 「 ・・・ なにを鶴窓帰山がいふ 」 とある
       *  鶴叟 - ( 墓碑銘 ) 老人に対する敬称 自称すれば謙称となる
                         老境晩年に達してから 自身を [ 老爺なり ] として用いた

   略歴  1805年(文化 2年) 伊豆国 ( 静岡 )に 農家の長男 として生まれる
         1835年 - 父 直八 が 金を貸していた子十郎により 毒殺される
         1837年 - 復讐をとげる際 子十郎 の子供 まで 殺害 してしまう
         1839年 - (天保10年)  罪名 : 敵討一件 大賀郷村 預り
         1848年 - (弘化 5年)  「 八多化の寝覺艸 」 刊行
         1868年 - (明治 元年) 新政府 の 大赦令 により 赦免
         1869年 - (明治 2年)  故郷 に 帰着
         1877年 - (明治10年)  74才 にて 病没
         
  墓碑銘には ・ 天保 9年 八丈島に配せらる
                   ・ 明治13年 病を得て俄かに逝くけり。享年76。
                          山口 半七、これを建つ。
 と記されている


  ハ  「 八多化の寝覺艸 」 を 読んで

    八丈島の太鼓 について 記述された文献 の 中で 最も古いもの として 貴重 な ものです 期待していた
   太鼓については ほんの数行しか書いてありませんでしたから 少々物足りなく 残念な気はしますが
   そのわずか数行の描写と さし絵 からは 鶴窓帰山が島に流されて来る ずっと以前から
   特に娯楽などなかった 島人が お盆を待ちかねて にごり酒や芋の煮たものなどを持ち寄り
   太鼓を叩き 歌い ・ 囃し ・ 踊ったり して 貧しい生活に追われる 日頃の疲れをいやし うさを晴らすのを
   楽しみにしいていた様子が 生き生きと描写されています
    読み書きの才能に秀でていた著者は 日々の糧を得ることに追われるような生活の中でも 島人の日常生活の
   あらゆることが珍しく この島の色々なことに 興味が尽きなかったようで どうしても書き留めずにはいられ
   なかったのでしょう そんな著者に とって は お盆の時の太鼓や踊りが 特別な興味の対象だったという わけ
   ではなく 毎年のこと として 島人がおこなっていたことを 目に写ったまま書き留めていて
   太鼓を 叩いている様子も その他のことと同じように記録したのでしょうから 誠に幸運だったと言えます

    特に 「 女性が 太鼓を叩いていることに 驚いたので そのことを書いた 」 という風でもなく 
   さりげなく書き綴ってあるように思えます 二人の女性が太鼓を叩いている図は
   どんなに多くの言葉で説明されるよりも ありのままを 教えてくれているようで しばらく 目を離すことが
   できませんでした  わずか 数行の 短い文と のびやかな筆使いで描かれた さし絵によって
   太鼓を叩いている様子や 太鼓の周りに集まった人々の 賑やかな雰囲気が 読んでいる者 ・ 見ている者に
   直接伝わってきてまるで自分もその場にいるような錯覚を おこしてしまいそうです

  *  「 八多化の寝覺艸 」 は 太鼓についての 最も古い記録といわれている 貴重なものですが 
    それと同時に 江戸時代 の 八丈島のことや 島民 ・ 流人 の 暮らし振りなど 多くの事柄が
    飾り気のない言葉で 記述されている 内容 の充実した 興味深い文献でありながら 
    その存在すら あまり知られていないのは 残念でなりません


   『 八多化の寝覺艸 』 と 《 鶴窓帰山 》 の参考文献

1 「 八多化の寝覺艸 」 と 著者 〈 鶴窓帰山 〉 について
 イ 日本庶民生活資料集成 第一巻  ・・・ 1968年(S.43.7.)   三一書房
 ロ 八丈の寝覚草 ( 勉誠社文庫 133 )  ・・・ 1985年(S.60.9.)   勉誠社

2 「 八多化の寝覺艸 」 について
 イ 東京都の郷土藝能  ・・・ 1954年(S.29.8.)   一古堂書店
 ロ 八丈実記 第一巻  ・・・ 1964年(S.39.11.)   緑地社
          第二巻  ・・・ 1975年(S.50.9.)      〃
          第六巻  ・・・ 1978年(S.48.2.)     〃
 ハ 日本民族藝能 X ( 離島 ・ 雑纂 )  ・・・ 1973年(S.48.2.)   木耳社
 ニ 八丈島誌  ・・・ 1973年(S.48.3.)   八丈町教育委員会内 編纂委員会
     511・512頁  ・・・ 古文書に太鼓の記事が出てくるのは1840年以降で、「 八多化の寝覺艸 」 に
             始めて登場するのである。この本の中に、{ 婦人盆中太鼓打図 } と題したさし絵があり、
             木の枝に吊した太鼓を両面から叩いている図で、足を一歩踏み出して打っているのは上拍子、
             小高い地面に腰かけて打っているのは下拍子である。また、つがる節は三根地区に残っていた。
 ホ 東京都立八丈高等学校 定時制紀要 弟9集  ・・・ 1981年(S.56.2.)
 ヘ 女護が島考  ・・・ 1981年(S.56.6.)   未来社
  ト 旅 探訪 ・ 伝説の里  ・・・ 1984年(S.59.1.)   日本交通公社
 チ 東京都民俗藝能誌 下巻  ・・・ 1985年(S.60.1.)   錦誠社
 リ 民俗芸能 66号  ・・・ 1985年(S.60.11.)   民俗芸能友の会
 ヌ 弟17回 東京都民俗芸能大会 解説書  ・・・ 1986年(S.61.3.)
 ル ザ・太鼓  ・・・ 1989年(H.1.5.)   大月書店
 オ 横笛 第22号 季刊 夏  ・・・ 1989年(H.1.12.)   邦声堂

3 〈 鶴窓帰山 〉 について
 イ 八丈島流人銘々伝  ・・・ 1982年(S.57.12.)   第一書房
 ロ 流人100話  ・・・ 1988年(S.62.9.)   立風書房
 ハ 1990年(H.2.) 6月24日  八丈流人伝 (73)   南海タイムス
                                                     井上洋子 記


 1p 八丈太鼓 の 由来 top  2p 八丈太鼓 由来の 「 個人的考察 」  3p 「 由来 以外 」 の 八丈太鼓
 4p 「 八多化 の 寝覺艸 」  5p 「 近藤富三 」 と 「 鶴窓帰山 」  6p 各種文献から 興味深い記録
 7p 「 昔 の 八丈島 」 について   八丈島を訪れた 四人 と 一団体   ある機関誌より − 転記


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