「 近藤富蔵 」 と 「 鶴窓帰山 」 について

 近藤富蔵守真 「 八丈実記 」 の著者 について
  ・ 1827年(文政10年) ・・・ 狼藉者打捨の科23才 三根村預り
  ・ 1828年(文政11年) ・・・ 宇喜多秀家の次男 小平次の後裔にあたる 
                            逸{いつ}と結婚して一男二女の父となる

  ・ 1880年(明治13年) ・・・ 赦免 (元年の大赦に漏れ赦免が遅れた)
  ・ 1882年  再渡島 尾端観音堂の堂守として 念仏一途の生活を送る
  ・ 1887年  没す 享年83才
  徳川譜代の旗本 近藤重蔵守重の長子 当時は殆ど勘当同然の身であったが 父重蔵が 隣家の百姓 
 塚越半之助との地所争いで困っているのを知った富蔵は 自分が解決して 久しぶりに父に孝養を尽くしたいと 
 江戸に返ってきたところが 半之助は前身が博徒で 近藤家の申し入れなど 聞き入れるような人間ではない
 ことを知った富蔵は ついに半之助一家七人を惨殺してしまった

  流刑後は 殺生を一切厳禁して しらみまでも殺さないという ざんげの生活に入った 旧家 大家の賃仕事を
 したり 仏像を刻み 位牌入れを造り 絵を描き 石垣を築き 旧家の系図を整理し 経師や畳屋の仕事までもして
 生活を支えた 洗うような貧困と闘いながらも 和歌 俳句をたしなみ 旧家の古文書を読みあさり 島民の教育
 啓蒙に尽力し 狂信的な仏徒でもあった
 彼の遺した多くの物の中でも 特に  「 八丈実記 」 六九巻  は 
 八丈島のありとあらゆる 方面にわたって 記録されており 八丈島の歴史を知るうえでの 貴重な資料となっている

2 「 八丈実記 」 の中の 〔 鶴窓帰山 〕
 
「 八丈実記 」 は 八丈島のあらゆることについて 克明に記述されています 内容も豊富で濃く貴重な文献として 
 各方面から 高い評価を受ける と同時に 八丈島の歴史を研究している人々にとっては この島のことを知る上で 
 絶対に 欠かすことのできない 史料 ・ 資料 と なっています 近藤富蔵自身が 調査して 書き上げた 膨大な
 記録も圧巻ですが 島の 名家に遺されていた 古文書 を 書き写したり 他の 流人のこと や 句作 など 
 放っておけば 四散してしまうようなものも 丁寧に書き留めてあります

  その 「 八丈実記 」 に
       
 「 八多化の寝覺艸 」 からの 抜書き や 著者の 〔 鶴窓帰山 〕 が 詠んだ歌が収集されています 
  そこで 「 八丈実記 」 の どこに ・ どんなふうに 納められているのか 調べてみることにしました

 イ 「八丈実記」 方言 (言語)       第一巻 324頁 〜
      天地   日モ月モ 天道様、 天ヲ テンネイ、 地ヲ ミチ゜ヤ・・・

        
 伊豆鶴窓帰山識  八たけの寝さめ草 抜書
       扨世にいふ難波のあしもいもせのはまをぎにて、所ゝの風俗物の名も、言葉づかひもかわりたるは
      ことわりなれば、こゝを笑ふにあらず。田をたばら 畑をしょ ・・・・・・・・・・   
            ・・・・・・・・・・ ほうろく ( カワラケ女 ) 此るい親子の居ところなど
                            にてハ心得ていふべし。これさし合ゆゑしるす。 330 〜 333頁

 ロ 「八丈実記」 風俗        第六巻 358頁 〜
      園翁交語云、男子ノ耕作等ハ国地ニヒトシ只女子ヨリ貢ヲ納ルユニ女ノ位高シ 
     此嶋ハ小田原北条時代ノ遺風ニヤ男子ハ ・・・ 
      豆州君沢郡ノ鶴窓帰山ナル者ヤタケノ寝覚め草ヲ戯作スヨク嶋人ノ情意ヲサグリ
     言語ヲアキラメ方言 { しまことば } ヲ本文トシ国語 { くにことば } を注解ノ
     仮名 { かな } トセリ、茲ニ附シテ一笑トス

      
八丈嶋ニテウイデ { 月水初出 } ノ親元ヘ見舞ニ往キ応対ノ趣キハマヅ年ノコロ四十歳余ノ ・・・・・・・・・・ 
                              ・・・・・・・・・・・・・・・ 惣シテワカラヌ言葉多シ 366 〜 367頁

 ハ 「 八丈実記 」 流囚著述              第二巻 448頁 〜
      八丈寝覚草   鶴窓帰山  開板

 ニ 「 八丈実記 」 詩歌句画集             第二巻 464 〜 538頁
  1 八丈八景図 詩歌発句 ( 頭注 ー 伊豆君□郡小坂村五郎エ門 )
         色かへぬ松や八重根の朝嵐 ・・・・・・・・・・・・・・ 前崎晴嵐 ( 470頁 )
         大里の鐘身に入むや夕あらし ・・・・・・・・・・・・・・ 大里晩鐘 ( 475頁 )
         幾夜降る尾端の雨や五月闇 ・・・・・・・・・・・・・・ 尾端夜雨 ( 478頁 )
         神港の帰帆賑し五月晴 ・・・・・・・・・・・・・・ 神港帰帆 ( 482頁 )
         滝津瀬や月の玉ちる洞輪沢(名古の浦) ・・・・・・・・・・・・・・ 名古秋月 ( 486頁 )
         藍か江や田面に落る雁の文 ・・・・・・・・・・・・・・ 藍江落雁 ( 491頁 )
         大坂の夕日まはゆき躑躅かな ・・・・・・・・・・・・・・ 大坂夕照 ( 495頁 )
         しら雪や八丈の不二の暮れおしむ ・・・・・・・・・・・・・・ 西山暮雪 ( 498頁 )

  2 題大赦逢                      第二巻 518頁
         御赦かうふりて愛子を島に残すことを
      とうふやが豆でころける一とむかし八丈ケ島に残す卯の花
                      豆州君沢郡小坂村百姓良左エ門  銀河亭鶴叟

  3 題赦免類                      第二巻 535頁
         鶴窓夢中狂歌 536 〜 537頁
     予南海の女護嶋に配して九歳の星霜を送る事糸のことし日夜古郷の母弟を思ふ事是哀威の情ならん歟唯
    頼む恵みの法の貴さを朝な夕なの業として神や仏に祈誓し侍る折からに、時弘化四の皐月の下二日短き夜
    半の明つ方間眠む夢の其中に三十一文字をふと綴り侍りぬ予元より風雅の未知につたなければ手にはの
    事ハ如何なれと是正しき吉事の前表ならんと其のまゝ筆を染め記す戯歌に云く  御利益をまては甘露の日
    和よく目出度事を菊の御節句  と読める不思議の瑞夢なれば四方の諸君子へ賀の一章を乞侍りて後に
    帰国の土産となさん事を希ふ斗りなり  物云へばいふ間に風の薫りけり

        【 近藤富蔵 】 ・・・ と ・・・ 【 鶴窓帰山 】
  1 誕生
        1805年(文化2年)5月3日 ・・・・・・・ 1805年(文化2年)
  2 出身
        徳川譜代の旗本 重蔵の長男 ・・・・ 伊豆国(静岡県)農家 直八の長男
  3 流刑
        1827年(文政10年) 23才 ・・・・・・ 1839年(天保10年) 35才
           狼藉者打捨                敵討一軒
  4 在島
        三根村預かり 56年間 ・・・・・・・・・  大賀郷預かり 30年間
  5 赦免
        1880年(明治13年) 2月 ・・・・・・・・ 1868年(明治元年) 12月
  6 死亡
        1887年 83才(八丈島にて) ・・・・・・ 1880年 76才 (故郷にて)

  ☆ 近藤富蔵の在島期間は大変長いものでしたから 当然 鶴窓帰山の在島期間と重なっています 
   鶴窓帰山が流されて来た頃 富蔵はすでにこの島で10年近くを経 貧しく苦しい生活ながらも
   「 官問破邪 」 を 書き上げており 島人に素読の指導も始めていました そして 
   鶴窓帰山が赦免を受けて 島を去る頃には  「 八丈実記自序 」 を書き上げていたようです

    小さな島の中で 三根と大賀郷という隣接した村に住んでいましたが その頃は まだ道路もほとんど
   整備されておらず 村と村との交流もままならない状態だったと思われますから それぞれの村は
   村内でかなり孤立した形態で 生活していたようです ですから 同じ島内で生活していたとはいえ 
   武士と百姓という元の身分の違いもあり 日々の糧を得ることに追われていた二人が 
   直接会って歓談するようなことはなかったのでしょう

    八丈島のことを書き留めた著作の中にも 二人の特徴が自ずと表れています もちろん 
   富蔵は学問的に質の高いものを目指し 帰山は庶民を対象にして書いている のですから 全く
   質の違うものを 比較してみること自体 無理なこと ・ してはいけないことなのでしょうが ・・・・・・

  盆踊りの情景描写 を 「 八丈実記 」 と 「 八丈の寝覚草 」 から ・・・

   「 八丈実記 」 ・・・ 1964年 (S.39.11.)
           歳時 八丈嶋年中行事   第一巻 350頁
     354頁 ・・・ 七月十三日ヨリ十五日迄、黄昏ニ牛ノ角突、村々広場ニテ見物群衆ス。大概帳云、闘牛ハ
             年々七月限リ為致処寛政十年ヨリ相止様村々エ ・・・・・ 壮者ノ角力モ時ニヨリテハアリ。
            十三日ヨリ十五日迄、毎夜五ケ村トモニ数百ノ男女入り交リ、盆踊リアリ。嶋中第一ノ壮観ニテ、
            年ノ始メヨリコレヲ楽シメリ。其形チハ男女老若真丸ニタチナラビ、同シフリニ手ヲアゲ足ヲ踏ンデ、
            声哀傷ヲフクミ、姿タ虚空ヲアオグ。其唄廿八品、名定リ、曲調各々習アリ。其名ハ ・・・・・

   「 八丈の寝覚め草 」 ・・・ 1985年 (S.50.9.)   勉誠社
     69 ・70頁 ・・・ 島人の生酔唄を諷ひ踊るなれども、島踊りといへるハ七月十二日の夜よりはじまり、
              十七八日ごろまで毎夜毎夜更けるもしらずおどる事、六才七才の童より七八十の翁まで、
              老若男女われもわれもと出て、大勢ひ輪になり立ち並び、さまざまの踊りをするなり。
              その盆おとりにも定りあり。宵に始るハ、まず壱ばんハ 松バら、・・・・・
                  ・・・・・そのほかくさぐさ踊りの数二十八品あれども略之。盆中、牛の角突あり。
              男牛を引き出して、双方より二疋つき合せて、角突のセうぶをさせる。
      この後 前記 「 八多化の寝覺艸 ( 33・34頁) 」 の ・・・・・ 島人、物見遊山といふハ、・・・・・ につづく

  ★ 「 八丈実記 」 には 島人がお盆を待ちかね 盆踊りを楽しんでいる様子にまで
                                    筆が及んでいるにもかかわらず ・・・
   太鼓のことについては まったく触れていません 50数年の在島中に 島人が叩く賑やかな太鼓の音が 
   富蔵の耳や目に まったく留まらなかったとは思えないのですが それが富蔵にとって 特に珍しいとか 
   興味を惹くほどのことではなかったのでしょう あるいは 武家の富蔵にとって 庶民が叩く太鼓などは 
   書き留めるに足りぬことだったのかも知れません  それとも ・・・   ただ単に ・・・
   結果的に 書かれていなかった ・・・ と いうだけのこと なのでしょうか ・・・
                                                            井上洋子 記


 1p 八丈太鼓 の 由来 top  2p 八丈太鼓 由来の 「 個人的考察 」  3p 「 由来 以外 」 の 八丈太鼓
 4p 「 八多化 の 寝覺艸 」  5p 「 近藤富三 鶴窓帰山  6p 各種文献から 興味深い記録
 7p 「 昔 の 八丈島 」 について   八丈島を訪れた 四人 と 一団体   ○ ある機関誌より − 転記


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