W 八丈島の太鼓に対する 【 個人的な理解 】

     調べたり 他人の話を聞いたり 想像したり 空想したり 実際に叩いたり しながら 
 この島で叩かれている太鼓について 自分なりに理解したことを まとめてみようと思います しかし
 
   自信を持って 「 これが確かなことだ!」 ・ 「 正解はこれだ!」 と 思ったことでも 
        月日が経つと疑問が生じてきたり 
                    とんでもない誤解だということが はっきりした 経験が度々ありますから
 
    
 [ 現在の自分の実力に応じた理解の記録 ]  として書きとめることにします

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    「 両面打ち 」 について
 八丈島の太鼓は 一つの太鼓を 二人で 両面から叩く太鼓です 片面は下拍子といって伴奏となる拍子を叩き
続けます もう片面は上拍子といって下拍子に合わせて曲打ちを叩きます 曲打ちとして決められたものは
ありませんから 上拍子を叩く人が即興で叩きます すなわち 「 気の向くままに 好きなように 自由に叩けば良い 」
ということですが 下拍子に合っていなければ どんな高度な技で叩いても 「 私はこう叩きたい!」 と主張しても 
それは受け入れられません この [ この下拍子に合わせて叩く ] ということは 人によってはなかなか難しいことです

 下拍子の技が未熟だったり 初めての相手だったりした場合は 上拍子の人が実力を発揮することができ
なかったり ひどいときには 全く叩けないことがあるのも事実です 一度位 ぴったり呼吸があって叩けたからといって 
次もまた 同じように気持ち良く叩ける ということでもありませんし いつもは気持ち良く叩いる二人でも 時によって 
まったく うまくいかないで 苦労するということもあります 又 いつも同じ人と叩いていると だんだん 呼吸が
合うようになり 気持ち良く 叩けるようになることもあります

 上拍子を叩こうとすれば 誰かが 必ず下拍子を受け持ってくれます 叩き良い下拍子から 合わせるのに苦労する
下拍子まで 実にさまざまです その拍子が束縛となるか 良き協力者となるか ということが 演奏の成否に大きく
関わってきますから 下拍子を無視して叩いたり 上拍子の人が冷静さを失い 下拍子が聞こえなくなってしまったり 
自分の技に こだわりすぎていたのでは 下拍子に良き協力者 となってもらうことはできません

  * 上拍子と下拍子を舞台の役者に例えれば
       上拍子 - 主役 ------- 拍手の対象となる 派手な存在です
       下拍子 - 脇役・裏方 --- 殆ど注目されない 地味な存在です
  * 上拍子は 精一杯叩きさえすれば 少々の技の未熟さは許される ・ 多めに見てもらえる 
           というようなところがあります
  * 下拍子は 上拍子の成功 ・ 不成功に 直接 大きな影響を与えますから 
           正確で 高度な技術 と 豊かな経験が 要求されます

 演奏の時に 主導権を握っているのは上拍子ですが 自分が主役だからといって 力んでみても 
確かな技を身につけた 下拍子 ( わき役 ) の支えがなければ 決して 自分の叩きたいようには叩けない太鼓です

 上拍子が上手になりたいからといって 一人で 太鼓と向き合っても なかなか 効果はあがりません むしろ
下拍子に頼らない叩き方 や下拍子を無視する 手前勝手な叩き方 が 身についてしまうことがあり 
二人で 一つの太鼓を 両面から叩く八丈太鼓が 叩けなくなってしまう ことにもなりかねません

 上拍子を叩くときは 一緒に叩いている下拍子の拍子をよく聞き それを頼りに 自然にでてくる拍子を打ち
込むようにします 自分の好みでない 下拍子であっても イヤだとか 叩きにくいということに こだわり
すぎていると ますます叩けなくなってしまう ことがありますから 今 相手をしてくれている下拍子に 素直に
合わせて叩くように 心がけていると これまでに 叩いたこともない 思いがけない拍子が飛びだしてくるような
ことがあり それが 新しい技の開発につながることもありますから 色々な人と叩くということは そんな
不思議な体験をする 機会に 恵まれる可能性がある ということです

 叩くたびに気持良く 満足して叩き終わることができれば 最高に幸せですが いつも成功するとはかぎりません 
むしろ 細かな心残りや明らかな失敗をして 叩き終わることの方が ずっと多いのではないでしょうか 
失敗をしたとき ・ 満足に叩けなかったときは その原因について 自分自身の技のことや これまでの練習
方法について また 体調のことから 気持ちの持ち方 についてまで 色々思い返して反省します 自分一人で
叩く太鼓であれば その反省を基にして これからの練習に励む ということだけでいいのですが 二人で叩く
太鼓の場合は お互いに 相手に対する 不満の気持ちが湧いてくるのも いたしかたのないことです
  例えば
       上拍子から  ←---------------→  下拍子から
   1. 勝手に速くなっていった ←-------→  あがってしまっていた|
   2. 聞き取りにくかった  ←----------→  しっかり聞かずに叩いていた
   3. もっと速く叩いてほしかった  ←----→ 実力以上の速さで叩いていた
                                                というような ことになります

 下拍子を受け持つときには 上拍子に意識を集中し できるだけ上拍子を叩く人の気持ちと 一つになるよう
心がけて 丁寧に叩きます たとえ 下拍子を 正確に ・ 長く ・ 速く 叩くことができたとしても 先走ったり 気を抜いて
叩いたり 上拍子の気分を無視したり 機械的な叩き方しかできないのであれば 決して 上手な下拍子ということは
できません [ 上拍子の技術と 変化に 充分 ・ 即 対応できる技術を持ちながら 上拍子の気持ちを尊重し 
上拍子に従い ときには 上拍子を補い ・ 助け 余裕を持って下拍子を叩き続けることができる ] ということであれば 
誰からも 頼りにされる 好ましい下拍子 すなわち上手な下拍子といえるでしょう
 
 下拍子が叩けるようになるには ただただ くり返し くり返し 練習するしかありません 下拍子はまず基本の
拍子が きちんと ・ 正確に 続けて叩けることは 最低の条件ですから 練習を始めたばかりのときは ちょっと
した間も利用して 座布団 クッション タイヤ 何でも叩いて 拍子を 腕 ・ 身体に覚えさせる他はありません 
それと同時に 他の人の下拍子を積極的に叩かせて貰うことも大切です 下拍子が少し叩ける ・ 上手になると 
色々な人 ・ 上手な上拍子の人の 下拍子に挑戦します 慣れない内は 途中で 叩くのを止めてしまわれたり 
本気で 叩いて貰えなかったりしますが その内 最後までついて行けたことに 喜びを感じ 「 充分 上拍子の人の
期待に応えた 」 と 満足できるようになります しかし 上拍子の人が 本当に 気持良く叩けたのか どうか という
ことは 下拍子の人には わかりませんから たいていは 自己満足していることの方が多いものです そこで

 下拍子が上手になるためには 上拍子の練習にも 励まなければなりません 上拍子が上手になってくるに
つれて 下手な下拍子で叩くのは 少しも楽しくないばかりか 苦痛を伴うことまである ということがわかってきます
こういう 燃焼できない上拍子の 残念さ ・ 悔しい ・ 悲しい 気持ちを 自分自身が味わうようになると 
下拍子の大切さ ・ 重要さが 切実にわかり 下拍子の練習に 一層 身が入るようになりますし 上拍子が叩き易い
ように ・ 気持良く叩けるように配慮したり 常に 「 これでいいのかな? 」 と反省し 他の人の叩くのを観察したり 
叩き方を工夫するようになります 色々な人と叩く度に 頭の音が強すぎる ・ 拍子が狂っている ・ 聞こえない ・
叩きにくい 等々 注文がだされ ・ 教えられますから 色々のことを吸収し ほんの少しづつ 少しづつ 本当に
上手な ・ 誰にも好まれる 下拍子が叩けるようになっていくのです が 八丈島の場合は それだけでは まだ
不十分です 地区により 年齢により 人によって みんな叩き方が 違うのですから ・・・・・ 
それぞれに 好まれるほど 下拍子が 上手に叩けるようになるのは なかなか容易なことではありません

  八丈太鼓を叩いていて 
      素晴らしいと思うことは 下拍子に合わせる ということ以外は なんら束縛されない ということです 
      不自由だと思うことは  いつも下拍子に束縛されている ということです

 矛盾しているようですが とても素直で正直な気持ちです というのは 自分が信頼し 高度な下拍子の技を持った
人と 一緒に叩けば 頼り ・ 助けられ 安心して 叩くことができますし 気の合った ・ 技の釣り合った二人で叩けば 
技の不足を 補い合うこともあり お互いに励まし合い ・ 競い合うように 調子づいて ・ のって叩けば 実力以上の
演奏が できることもありますが まったく 逆のことがおこる 可能性 ・ 危険性 も 同じようにあるからです

 八丈島の太鼓は 一人の技 ・ 力だけでは 何ともできない太鼓です 相手に頼ったり 頼られたりすることが 
素直にできると 気持良く叩けることになり それが 良い演奏へとつながります
 
 太鼓の周りの人達に 囃され ・ かけ声に励まされ 我を忘れて 思わず叩いてしまう ということになれば 
自然に 素晴らしい太鼓 ・ 自分でも満足できる太鼓 が 叩けることになります


     
ロ 「 即興打ち 」 について
 太鼓を ドン ドン と叩けば 叩いた人の数だけ 音 ( 響き ・ 音色 ) が違います 力が 強い ・ 弱い という
ことからはじまり その他 諸々の身体的条件に 左右される とともに ドン ドン と叩く時 太鼓を叩く人の
気持ちが 音 ( 響き ・ 音色 ) のなかに 自然に こもるから ではないでしょうか そのために 単純な ドン ドン 
でも 一つ一つ 微妙に違って聞こえる のだと思います 初めて太鼓を叩く人が ドン ドン と叩いても違うのです
から 太鼓の練習を積んだ人が 心 ・ 想いを込めて 叩けば その人の想いが 自在に表現されることになり 打ち手の
特徴は 強調され 個性豊かな太鼓として 聞く人 ・ 見る人 を感動させ 強い印象 を与える太鼓 となるでしょう

 太鼓を叩く人が これまで生きてきた中で 自然に 内面に蓄えられたものや 太鼓や 太鼓以外の訓練 などで
身につけたものは 人それぞれ みんな違いますし 身体的な条件も 一人一人 みんな違っているのですから 
そんな 自分自身を土台にして叩く太鼓が 一人一人 みんな違うのは 当たり前のことなのです たとえ 
初めて 桴を持って太鼓を叩く人でも その人にとって 叩きやすい拍子 ・ 好きな拍子や 音を出すための
桴の扱い方など 太鼓を叩くときに でてくる ・ でてきてしまう 癖 ( 叩き方 ) が 必ずありますから 
上手に叩ける 叩けないということを除けば 特に 他人と異なる太鼓を叩こう などと意識しなくても 誰でも 
桴を持って太鼓を叩けば その人らしい ・ その人にしか 叩けない太鼓が 叩けるのです 又 人は生きている限り
変化し続けますから その変化につれて その人の打つ太鼓も 当然変化していきます

 太鼓の練習を始めた頃は 新しい拍子や叩き方を覚えたり 工夫することによって 自分の太鼓を 変化させて
いくことができます 練習を積み重ねていくと 新しい拍子や 技が 徐々に身についていきますから 練習の成果 ・
進歩の度合いに応じた 独創的で 内容の豊かな太鼓が 叩けるようになります しかし それと同時に 練習を
始めた頃の 泥臭いけれど 素朴で 飾り気のない その人独特の持ち味は だんだん薄れ ・ 失われていきます 
初心者であっても 一人一人 捨て難い持ち味を 必ず持っていますから これは 少し残念なことなのですが 次の ・
一段上の 新たな持ち味を引き出し 発揮するためには どうしても 通過しなければならない関門 なのかも知れません

 八丈太鼓は二人で叩きますから 一つの太鼓を両面から叩いている二人が お互いに影響を受ける ・ 与えるのは
当然ですが 即興で叩く上拍子 以外にも 太鼓を叩く場所や その場の雰囲気 自分の体調 ・ 精神的なことなど 
色々のことに 影響を受けてしまいます 環境が違えば その影響を受けて 叩く太鼓も変りますし 影響を 強く
受ければ 受けるほど 太鼓も変化せざるを得ません 好ましい影響を受けて 自分でも驚くほど気持良く 上手に
叩けることがあるかと思えば まったくのれなくて いつもは何気なく叩いている拍子までも 狂ってしまうことがあります 
すなわち 常に 成功と失敗が 背中合わせになっている太鼓 ・ とても 不安定な状態の中で叩く太鼓 と言えます

 決まりがない太鼓を 即興で 自由奔放に叩くということは 自身の内から湧いてくるものを 身体 ( 桴 ) で 
表現する ということです 内面からのものですから 叩く人によって また 同一人でも 叩く時の気持ち 健康状態 
叩く場所によって 叩き方 拍子 音 ( 響き ) が すべて違うのが当たり前なのです

 内から湧いてくるものを 自由に叩けばよい とはいっても ただそれだけを 頼りにして叩いていたのでは 
限界があり 次第に もの足りなくなってきます そこで 新しい拍子を工夫したり 
他の人の拍子や 桴捌きを 真似たりすることで 叩ける幅を 徐々に増やし ・ ひろげていくのですが 
そういう拍子等は 自然に 内から湧いてくる拍子 等と 異なり 完全に自分のものになるまでは 意識的に 
回数をかけて練習しなければ なかなか身に付かないものです

 打つ人の好きな拍子 苦労して ・ 工夫してやっと 自分のものにしたような 大切な拍子などは 
太鼓を叩くときの流れの中で 自然に大きな部分 ・ 重要な部分を占める叩き方 となります 打ち手はできるだけ
独自の拍子 ( 手 ) や桴捌きを工夫して 独創的に叩くように 努力しますから ますます その人ならではの 
特徴のある拍子や 叩き方が明確になり 強調されることになります 
周りの人達は そんな音 ( 拍子 ・ 手 ) を聞き覚えて それによって 誰が打っている太鼓かがわかる と
同時に 「 あの人の太鼓は いつも同じだ ! 」 という印象を 受けることがあります 
 練習を積んでいくことにより 周りの環境にも 左右されることが少なくなり 得意な拍子 ・ 好きな拍子を 
自分の限られた身体を使って 安定して叩けるようになれば 細かな部分は変化していても 自分の打つ太鼓の
大きな流れ ・ 好みの拍子 ・ 身体の使い方までを 一回一回 太鼓を打つ度に まったく異なるようにして
叩くことは 不可能なことですから 同一人が叩く太鼓を 聞いた人 ・ 見た人が 聞く度 ・ 見る度に 同じような
印象を受けた ・ 持ったとしても それは 当然のことなのかも知れません 実際に叩いている太鼓を 
譜面にでも書き採れば 一回一回 かなり 異なっているということは あきらかなのですが ・・・

 練習が進むにつれて だんだん 太鼓を変化させることが 難しくなってきます 色々な拍子を叩きたくても 
下拍子から 外れることは許されていませんから 拍子と技術からだけ いくら考え ・ 工夫してみても 
打つ手 ( 種類 ) には 限りがありますし 成長の止った身体を変化させることは ほとんど絶望的です 
それでもなお 自分の太鼓をより良く 変えようとすれば 自分を変化させる ( 自身の内面を変える ) 他は
なさそうです なぜなら 打つ人が太鼓をどんな想い ・ 内面を持って叩くか ということは 
太鼓を叩く技術と共に その人が打つ太鼓に 大きく関わることだからです
 
 自分の内面を 意識的に 変化 ・ 充実 させるためには 自分自身を変えるための努力を 
長い月日 ・ 年月をかけて ずっと ずっと 続けていくことが 必要になってきます 
太鼓や 太鼓以外の 色々な事 ・ 色々な物に 興味を持ち 挑戦し それらから 新鮮な刺激を受けたり 
新しい知識 や 技術を 吸収したり 他の人々との接し方や 周りの人々への 心遣いにも注意するという 
地道な日々の積み重ね ・ 努力が 少しづつ 自分自身を変化 ・ 充実させていくことになり それによって 
自分の叩く太鼓も ほんの 少しづつ 少しづつ 変っていく可能性があるのです 

 八丈島の太鼓には 特別の決まりや形がありませんから 
自分の限られた身体と 内から自然に湧いてくるものを 基にして 即興で 太鼓を叩けば つい 
自分自身がでて ・ 現れてしまいます 他人に知られたくない ・ 見られたくない 諸々のことは 覆い隠しておいて 
太鼓だけを格好良く 上手に叩こうとしても それは無理なことです 
自分の あるがままに叩く ことが 個性的な太鼓を叩くことになり 精一杯 無我夢中になって 叩けば 叩くほど 
自分がさらけだされてしまい より個性あふれる 豊かな太鼓 へとつながっていきます ということは 
個性的な太鼓 であればあるほど 即興で打つ太鼓の 真髄を実現している太鼓 といっていいでしょう


    
ハ 「 打つ ( 叩く ) こと 」 について
 書きながら 「 これでいいのかな?」 「 ほんとかな?」 と 首をかしげてしまうことが 度々ありました そして 
                    やっと なぜそういうことになるのか わかりました 
 八丈島の太鼓は 他人に聞かせたり ・ 見せたりする太鼓ではなく [ みんなで叩いて 楽しむ太鼓 ] とか
[ 大衆芸能の原点が 残っている太鼓 ] と言われています しかし 舞台で叩いている人達の太鼓は 
洗練されていて [ 芸術の域にまで 達している太鼓 ] ではないか と思うことがあります

 八丈島で 現実に叩かれている太鼓は
         酒の席などで 座興として みんなが かわるがわる叩いて 楽しむ 太鼓
         舞台などで 聞かせ ・ 見せ 他の人を 楽しませるために 叩く 太鼓
                              というように 二つの方向があるからではないでしょうか

 もともとは 太鼓の周りに集まった人達が みんなで 替わる替わる叩いて 楽しんでいた太鼓 だったのでしょうが 
そんな仲間の中から 特に太鼓にひかれ 積極的に叩いたり 工夫した人達が どんどん上手になっていき 
その内 結婚式などの改まった席で 「 叩いて欲しい!」 と 頼まれるようになったり ついには 催し物の会場や 
観光客のために 叩いて聞かせる ・ 見せる ということにもなり 頼まれて叩くようになった人達は 太鼓を叩く
回数が増す と 同時に 練習にも熱が入るため ますます上手になっていったのだと思います その結果 
同じところから 出発した太鼓で ありながら 次第に 両者の 太鼓の技 の間に 大きな開き ができ 周囲が 
それぞれの太鼓に 期待する方向も はっきり 異なっていったのではないでしょうか

 この島の太鼓は 気軽に 何処へでも持ち運んで叩きます 民宿やホテル 個人の座敷や 庭 はては 浜辺や
山の中と いうぐあいです また 特別に舞台がしつらえてあるところで 叩くこともあります このとき [ みんなで叩いて
楽しむ太鼓か ] [ 聞かせ ・ 見せて 楽しんでもらう太鼓か ] ということで 太鼓の叩き方が 変らざるを得ないのは 
当然のことでしょう 大勢の観客の前で叩く太鼓を みんなが叩いて楽しむ太鼓 と同じように叩いても 聞いて ・
見ている人達を喜ばせたり 感動させる ことはできませんから 大きな会場の 舞台の上で 八丈太鼓を披露する
ような時には どうしても [ 大きな音 ( 響き ) ・ 力強く叩く姿 ] が 必要だと思うのです ・・・
 稲田カエさんほどの名人になれば 小さな太鼓を軽快に叩いて 充分に観客を魅了し 感動させることができたの
ですが これは 誰にでも 簡単に真似のできることではありません また 酒席などで 飲んだり食べたりしながら 
みんなで 太鼓を叩いて楽しむ ような時には 技を発揮して聞かせる ・ 見せるというより その場の雰囲気がより 
盛り上がるような こっけいな姿や叩き方の方が みんなに喜ばれるようですから 太鼓を叩くときには 
[ 叩く場所 ] と [ その場の雰囲気 ] に 合うように 叩くことも 大切なこと かも知れません

 このように 同じ八丈太鼓でありながら まったく違う太鼓のように聞こえる ・ 見える太鼓のことを 一つの言葉で
表現することが すぐにはできなかったり ・ とても難しかったり 書きながらも 疑問や矛盾を 感じて 筆が止ってしまう
ことがあり ずいぶん困りました そこで それぞれに 合う 表現をさがし その見つけた表現の それぞれについて 
深く ・ 広く ・ じっくり 考えを巡らせていると 結局は 一つの ・ 同じ 表現で 決して間違っていなかったり 
それで充分だった ということも 度々ありました すなわち 根元は同一の太鼓を 単に 表面だけ ・ 上辺だけで 
判断してしまうことが 違う太鼓として とらえることになり 首をかしげる原因 となっていたにすぎなかったのです

 二つの方向で叩かれている太鼓に 共通していることは [ 叩く本人自身が 楽しむ太鼓 ] ということです 
確かに 大勢の人が太鼓の周りに集まって 競うように太鼓を叩いたり 太鼓に合わせて歌ったり 
こっけいな身振りに 笑い興じ 囃し立てている 賑やかな雰囲気の中では その場に一緒に居るだけで 
充分に楽しむことができますから 「 直接 太鼓を叩 く ・ 叩かない ということなどは たいした問題ではない 」 
という気がします しかし みんなに 押しだされ 引っ張りだされて むりやり桴を持たされ 励まされながら 
太鼓を叩いてみると 「 決してそうではない!」 ということが よくわかります 例え ドン ドン ドン と しか
叩けなくても 太鼓の周りで 他の人の太鼓を聞き 手を打ったり かけ声をかけたり 囃したり しながら 
その場に居ただけの時の楽しさとは 比較にならないほどの楽しさです まして 大勢の観客の前で 
おもう存分 太鼓の技を疲労して 賞賛の拍手を浴びたりすれば 打った本人は 最高の気分です 
こればかりは 実際に桴を持ち 太鼓を叩いてみなければわかりません


        
 【 あ と が き 】
 八丈島の太鼓について ちょっと どころではなく しつっこく しつっこく 想像の域をこえて 空想の世界にまで 
翼をひろげてしまいました 何の根拠もないことも書いてしまいました ほんの少しの事実や資料を基にして その
何倍もの想像をしてみました ちょっとした疑問についても 「 あれや 」 「 これや 」 「 ああか 」 「 こうか」 と 大げさに
書いてみました 我ながら 「 こんな些細なことで こんなに大騒ぎする必要があるだろうか?」 と思いながらも 
どんどん広がっていってしまい 収拾がつかなくなってしまった というところがあります あちこちに 同じことや 
同じようなことが書いてあるのも 目に余りますが 一つの八丈太鼓について 書いているのですから それも
当然のことで いくつかの部分とか 色々の方向に 分けて書こうとすることの方に 無理があるのだと思います

 八丈太鼓には 特に決まりがないのですから 打つ本人が 「 ああか ・ こうか 」 と 悩むしかありません 
自分一人での悩みの他に 二人で叩く太鼓ですから 相手のこと 相手と自分のこと しかも 
決まった二人で叩くとは限られていませんから 相手と自分については 実にたくさんの 組み合わせができます 
組み合わせが多くなれば 悩みの質も それぞれ異なり 悩みも それだけ多くなる ということになります 
下拍子 上拍子 それぞれの立場から書けば いくら書いても 書き尽すのは 不可能 なほどでしょう 
打ち手は いつでも 「 自分の技を最高に発揮したい!」 「 最高の気分で叩き終わりたい!」 と
願いながら 太鼓に向かいますが 満足な結果に終わるよりも 残念な想いで終わることの方がずっと多く 
悩みの絶えない 原因 と なっています

 随分えらそうなこともかいてしまいましたが 
   
 「 そうあればいいな- 」 とか 「 こうありたいな- 」 というような 
    努力目標 と 【 思い上がってしまったり ・ 相手のせいにだけしたり 】 することのないように 
    自分自身のことを反省する糧にしたい ・・・

                           
というような ・・・ 色々な願いを込めて書きました

 八丈太鼓は 誰でも気軽に叩ける太鼓といわれ 多くの人に親しまれていますが そのわりには 
奥の深い 複雑な太鼓なのでしょう これからも 練習を続けながら 書き足し 書き直す作業を 
くり返していかなければなりません                                      

                                                            
井上洋子 記



 1p 八丈島の太鼓について top  2p 八丈島の太鼓に対する 「 個人的な 誤解 」
 3p なお 「 なぜ?・ どうして?」  4p 八丈島の太鼓に対する 「 個人的な 理解 」
 5p 各種文献から 「 気になる記述 」  6p 「 太鼓節 ・ ショメ節 ・ 春山節 」 について


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             大焚火を囲んで野外大パーティー。
       八丈太鼓のリズムに乗って踊っているのはマルセ太郎さん

          1987年(S.62)1月1日  南海タイムスより