「 昔 の 八丈島 」 に ついて

 
八丈島で叩かれている太鼓 の ことについて 
                 「 どんなことでもいいから 知りたい!」 という 気持でいっぱいです 

 そのため には 太鼓に 影響を与えずにはおかなかった であろう 
    
 【 この島の 諸々のことを 知ることも 必要 】思い 少し 調べてみることにしました

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 江戸幕府は 八丈島を流刑地として
        1606年 ( 慶長11年 ) 〜 1871年 ( 明治4年 ) の間に 1,800余名 の 流人を 送り込みました
  
 初期には 八丈島への流刑は 遠流{おんる} として 主に 政治犯 思想犯 が 流されて来ていました 
人数も少なく 比較的 身分の高い者が 多かったのですが 後には 人数の増加とともに 質も低下し 賭博関係などの
犯罪でも 流されて来るようになり 食料が乏しく 貧しい この島にとっては 大変な 負担だった と思われます

 流人は 少しの束縛はあったものの 島民の一人として 生活を営み 「 八丈島は 比較的 暮らしよい島であった 」
という 報告が 「 公栽秘録 」 正徳4年 3月の条 に しるされています
 
 武家 や 僧侶 出身 の 流人は ほとんど教育を受けたことのない 島人に接して 教育 の 必要 を 感じ すすんで
寺子屋 の 師匠 を つとめ 村人 や 子供達 を 集め 学問 の 手ほどき をしたり 知識 や 技術 を 教えたり したことが
八丈島における 教育史 の はじまり と なっています 
 島役所から 「 渡世勝手次第 」 と 言い渡された 有識者が 読み 書き そろばん を 教える ことは 
最も手近な 生活手段 であったことも 事実です

 八丈島の 制度 文化 産業 等についても 優れた流人達から 教えを受け お互いの 交流によって
珍しい 風俗 習慣 生活様式 が 創られたり 各地方の 流れをくむ と 思われる 民謡 や 盆踊り の 中の 多くは 
流人によって 伝えられたものが 今日まで受け継がれてきた と言われています このように
八丈島の文化 は 流人 の 影響 を 抜きにしては 考えられない ほどです


T 「 島名 の 由来 」
          
この島は 滅多に 渡海できない 幻の島として 多くの島名で 呼ばれていました
  1 沖島 沖の島
    ・国地より 遙か南東の海上にあり 伊豆諸島中 もっとも奥にある島 すなわち 沖にある島  という意味

  2 八嶽島 八岳島
    ・「 八 」 は伊豆諸島中 八番目に開けた島 「 嶽 」 は字画が多く わずらわしいので
     丈 の 字 を{たけ} と 訓読 し 八丈 と 書きかえた
    ・三原山の外輪山が いくつもの峰に分かれ あたかも 八岳 が 集まっているように 見えるところから 

  3 綜興{いとしま}
    ・綜 は 糸 の こと 興 は 小さな島 の こと 
     この島は 古代から 絹の産地 として 知られている ので この産物に ちなんだ と思われる

  4 女護島 女国 女子郷 女人島
    ・この島に 古くから伝わる 女人国伝説 が 馬琴の 椿説弓張月 に より 
     ひろく 世に知られるようになって 当時の人々の 好奇心を 誘った
    ・長女を 「 ニョコ 」 と 方言 で 呼ぶ ことから 女護 の 字 を あてた

  5 八郎島
    ・鎮西八郎為朝 に対する 島人の 敬慕の念から 「 八郎島 」 と 呼ぶようになった 
     八郎は 島の方言で 「 ハッチョウ 」 と 呼ぶ この 「 はっちょう島 」 が 「 八丈島 」 に 転化した

  6 八丈島
    ・為朝が 三根の根田原で 八丈 もある 大蛇 を 退治 した ところから 八丈島 の 名 が 起こった
     ( 八っつ に切った 一片が 一丈 づつ あったという )
    ・この島の 年貢 でもあり かつ 唯一の 家庭経済を支えてきた 絹織物の単位 である
 一疋 ( 2反 ) の 長さ は
     八丈である 八丈絹 とは 長さ八丈 の 絹織物の名称で 八丈島特産の 黄八丈の 固有名詞では なかった が
     黄八丈の 評判が 高くなるにつれ 八丈絹を産する島 が 八丈島 となり
     絹織物 の代名詞 であった 八丈 が  この島 の 固有名詞 となった


U 「 始祖 伝説 」
      八丈島は その位置 や 海流 などの 地理的条件 から 漂流者 の 開拓 によって 歴史 が はじめられた
     ものと 考えられます 北方から 渡り あるいは 西方から 漂着する 人々 や 文物 に よって かもし出される
     始祖伝説 は この島の 開拓史 を 間接的 に 物語っている ようです

 1 八十八重姫{やそやえひめ}
     天孫降臨にあたって 大国主命は 事代主命とともに 国土を 天孫にゆずり 各地に 開拓の鍬をふるった
    事代主命は 一族と 八人の妃と共に伊豆諸島を開き 治めた 妃の一人の 八十八重姫は 八丈島に渡って
    古宝丸 ( 許志岐 ){こしき}を 生み この二人が 八丈島の始祖 と いわれている
 
     八十八重姫 ( 優婆夷姫 ) を 祀る 優婆夷{うばい}大明神 と 古宝丸 を 祀る 宝大明神は ともに 
    大賀郷 にあり 延喜式 に 列せられる 八丈総鎮守郷社 である

 2 秦の除福
     秦の始皇帝が 方術士 除福 を 東海につかわし 不老不死 の 霊薬 ( 仙丹 ) を 求めさせたが 
    その霊薬を 手に入れることができなかった 除福 は 帰国 を 断念し 
    孝霊天皇 紀元前219年 ( 72年 ) 紀州熊野 に 着き この地で 生涯を終わった
 
     除福 に 従って来た人々は 童男 童女 の 船に分乗し ふたたび 漂流 したが この船の一隻は 
    八丈島 に 漂着し それには 500人の童女 が 乗っており 青ヶ島 に 漂着した 一隻には 500人の童男 が
    乗っていた これより 八丈島 を 女護ヶ島 青ヶ島 を 男島 というと 伝えられている

 3 丹那婆{たなば}
     太古大津波がおこり 住民が ことごとく溺死したとき 丹那婆 という妊婦が ただ一人 船の
艪にすがって
    助かり やがて生まれた 男の子と 後に 母子交会して 子孫が繁栄し これが 八丈島 と なった
     現在 丹那婆の墓 と称されるのは 末吉と大賀郷の二カ所にあるが もとは三根にもあったといわれている
 
     母子交会 の 始祖伝説は わが国のいずれの地方にもなく 八丈島のみ に 残存している しかし 
    この類型 は 南太平洋 の 諸民族間には 多く伝承 されている


V 「 島民 の 生活 」 に ついて
   
伊豆七島中 水田があり 稲作が可能な唯一の島ですが その面積は狭く やせた土地からの 米の収穫は
   極めて 僅かなものでした その上 毎年のように 台風の脅威にさらされ 雨 ・ 風 ・ 塩 ・ 干ばつ などによる 
   被害を受けて 凶作 ・ 飢饉 に 陥りました 庶民の常食は 里芋 や 少量の 麦 か 粟 を 煮た中に あした葉 を
   たくさん刻み込み 海水等で 味を付けた 雑炊でした 米飯は 盆 と 正月 だけ あとは 祝い事 が あった時 や
   普請 屋根替え などの 手伝い に 行った時 に ご馳走になる くらいでした 
    幕府は 救助金 や 物資 を 援助 しましたが 島民は 慢性的 な 食糧難 に 苦しんでいました

    1800年代 さつまいも の 栽培がはじまり 作付け方法 の 改善 や 品種の改良 を 重ねて 収穫量 も
   増してくるようになると 次第に 島民 の 主要食糧 となり 食料不足 を 緩和する のに 役立ち 
   人口の増加 も 少しずつ 可能 に なりました

    『 八多化の寝覚草 』 より
       ・・・・・ 平日の夫食{ぶじき}は、さつまいも又さつまの切干し、夏は麦こかしその外
草{あしたくさ}の 
       たぐひなり。 ・・・ ・・・七月よりはあたらしきさつまいもの出来るをたのしみ食するなり。
       尤、両寺・神主・地役人その他大家の主は年中米の飯を日用すれども、小前の人々は、たゞ盆と正月と
       両度ばかり白飯{めし}を食{くひ}、ふだんは一切これおば食事{くふこと}なし。
       ただし、屋根がへそのほか普請のときなどには、飲酒をもって人の労を謝する事。・・・
       ・・・一体島地は一面の岩石にて、地形鋸の歯を並べた立てたるがごとし。塵土積{つもり}敷て
       在所となり、田畑の地となれり。或は「かなど」とて焼山の石岩砕{くだけ}しきて土となりたる体なり。
       これによって作{つくり}農家ははなはだ苦労多し。また、旱損{ひそん}風破{風邪当て}の多きゆゑ、
       諸作共功を全ふし難し。又、島々のうちには此島に限り田作ありて米穀{こめ}出来れども、人面
       {ひとかず}また多きゆゑ五穀は勿論、野穀{いもさつま}を平食とすれども、年分には不足がちなり。・・・・・

 イ 黄八丈(絹織物)と女性
    八丈島では 古くから 丹後 と 呼ばれる 織物 が 織られ ていましたので 
   支配者 は 年貢として 収穫の少ない 穀類を 取りたてる 代わりに その機織りを奨励し 
                             八丈島独特の絹織物を 租税として 献納させることにしました

    八丈島の女性は 機織りが出来なければ 一人前の女性 として 認められず 嫁の資格 としては
   器量よりも 機織り の 腕の方 が 重要視される と いうほどでした
    年貢としての 上納織物を織る家は 決まっており 幡屋 は 注連縄{しめなわ} を めぐらして 清浄につとめ 
   織女 の 衣服 にも 気を配って 慎重に 取り扱いました 織上がった反物 は 役人の 厳格な検査 に
   合格したものだけが 献納 されました 織手は 各村で 二十才 〜 四十才の 優秀な女性を 選び出し 
   その中から 月経中の者 や 忌中の者 は 除外される というように 厳重 に 選考 されました
   島の女童達 は 早く そんな織女 に 選ばれたい と 願いつつ 機織 に 励んだ ようです

    『 八多化の寝覚め草 』 より
       ・・・・・この島金銭の通用なく、島織の丹後縞、紬縞、綾帯の類を江戸表、島会所へ出し、
       米麦粟大豆の類と交易して夫食の助けにするなり。

   
 『 八丈実記 』 より
       ・・・・・嘉永の今も此島にては男はただ山野に耕作し、船の出入りに公用勤めるばかり、
       女は家に居て年貢を納め、万事に差引きす、しかも妻女を女亭主と呼び気位高し。

    八丈島では 古くから 畑仕事は男が し 機織り仕事は女が する という 分業が
   かなり はっきり していたようです 黄八丈は 年貢として 又 主食類との 交易品として 島民の生活 をささえる
   重要 な 産業でした その 機織りの作業を 受け持つ 女性の地位 は 高く 一家の主権は 主婦が
   握っていましたので 女性上位の島 という 印象を 与えることも あったのでしょう
    八丈島へ渡海した 古い見聞記などには この島の 女性の美しさ が 大きくとりあげられ たぐいない美女国
   とか 女人郷{にょにんさと} として 賞賛 していますから 女性主体の島 だった ことは 間違いない ようです

 ロ 漂着船
    八丈島の歴史は 一面において 漂着の歴史 といえるほど 国地 並びに 国外 ( 中国大陸 )からの
   漂着船が多くありました 八丈島に漂着した 船のほとんどが 西 または 南西方面 から 黒潮 に 乗って
   漂着 したもので 伊豆諸島は この方面から 漂着する 船 に とっては 本土から太平洋へ 長くのばされた
   救助網 で あったと 考えられ 南の果て の 八丈島 が もっとも 重要性 を もっていた と 思われます
   伊豆七島は 幕府直轄 の 流刑地 でしたから 島民 の 自由 な 交通 や 交易 は もとより 
   他の 国地から 旅人 が この島 に 入ることも 許されていませんでした

    八丈島では 漂着船 の 積荷 とくに 食料は 何物にもかえがたい 貴重な 救援物資 でしたから 
   島民は 漂着船 を 待ち望み 漂着者が あったときには 親身に介抱し 精一杯 もてなしました 
   漂着船の積荷に 関しては 厳重な 取り締まり規定があって 勝手に横領するすることは 許されませんでしたが 
   島民 と 船頭 との 話合いで 積荷の処分は かなり 自由だった ようです

    規定では 漂着船の積荷の 一割 が島方のものになり 残りは 再出帆の時に 積み込むことに
   なっていましたが 船 も 破損 していることがあり 島で 買い取ることが 多かったようです 
   船 が 沈没して 積荷 を 引き上げた 場合 は その全部 が 島方 の ものになり 
   岸 に 漂着 した 荷物 は 二十分の一 が 島方 の ものに なりました

    漂着船が 多くの 文化を もたらしたことは 事実ですが こうした 恩恵 の 反面 
   伝染性 の 病気 を 運んでくる こともあり 医療 の 整っていなかった この島 の 住人 に とって 
   伝染病 に 感染することは 何よりも 恐ろしい ことでした

   
 『 八多化の寝覚草 』 より
         ・・・・・いまだひらけかんrたる遠境ゆゑにや、人気{じんき}いと大様なるところありて、自然物事
        温和{やわらか}なりき。 されば或は漂流の人々八丈を取りはづすと東海には日の下より外は
        行処なしと、からき命をたすかり、この島へたどり着くこと間々あり。 島人は国地の人を
        大切にいたす事、むかしより土地のならひにて、国人は、逗留中ねんごろに見まひもてなし、
        出ふねの時はおのおのわかれをおしみ、ともずなにとりつきて泣きわめくなど、しほらしき事なり。

 ハ 風俗・習慣
     黒潮に さえぎられ 本土から 遙か 遠く離れた 八丈島 は 長く 神秘性 を 保ち続けて いましたから 
    国外 を 含む 各地の 民俗 が 混じり合った と思われる この島 独特 の 珍しい 風俗 や 習慣 が 
    ごく最近まで たくさん 残されていました

  1 他火{たび}
     月経 並びに 出産 の 時に 女性は 家族と離れ 隔絶された 他屋に入り 別の火で 生活する ことが 
    習わし となっていた この別小屋を 他火小屋 と いい そこで 女性が生活する期間 は 七日間 
    出産 の 場合 は 産気づいてから 二十一日間 であった

  2 初出{ういで}
     女子の 初潮 を 祝って 餅をつき 濁酒 を ふるまい 婚礼より 盛大に 祝宴 を 開いた 
    親戚 や 友人達は 稲穂 や いも たばこ などを 贈った

  3 回り宿
     男女とも 十二 ・ 三才 になると 行儀見習い ということで 親しい大家 子供のいない家 
    烏帽子親 ( 仮親 ) の 家などに 泊まる 習わしだった 男 女 は 別々の家に 泊まり 礼儀作法 や
    一般教養 を 教えてもらい 女子は 家事裁縫 も 習い 若い 男 女 の 社交の場 でもあった

  4 烏帽子親{えぼしおや}
     村 の 名望家 が 頼まれ お互いに 父 ・ 子 と 呼び 親は 子供が 元服するとき には 
    前髪を剃り 元服名を披露し 婚姻の時は 夜具 や 機 を 贈った 
    子は 烏帽子親 の 葬式 には 穴掘り や 棺持ち を つとめ 米一俵 を 贈った

  5 足入れ婚
     婚姻 の 成立後 嫁 は 生家で暮らし 夜 は 婿 の 妻問い が つづいた 
    婿は 嫁方のために尽くさなければならず 嫁も 婿方のために 朝夕の水汲みをし 忙しい時は手伝いに行った 
    婿の親が 隠居生活に入ると 嫁は婿方へ移り 「婚礼」 と 呼ばれる 酒宴が おこなわれた

  6 隠居
     親が 次男以下を ともなって 別棟 に うつり 別世帯 の 生活 をし 長男夫婦 に 独立の主屋 を 提供した 
    隠居するときは 嫁が 婿方に 移り住む時である 財産相続の多くは 長男 の 単独相続 であった


W 「 流人 の生活 について 」

   
『 八多化の寝覚草 』 より

       ・・・・・在島の流人は凡三百人にちかし。いづれも島人の情けを受け、百姓の助力をもって、露命
       相続するかなしき世渡り。・・・ ・・・ その中にも国もとより見つぎ物送りくれ候人は少しは辛苦もかろく
       候へども、便りなき人は草り{ぞうり}など作りならひて、手業として世渡りをすれども、まことに
       その日その日を送りかね、実にあはれなる次第なり。流人の商いは、籠を背負て、かの作りし草り
       又は何呉と手作りの細工ものなど、いろいろ籠の中へ入れて、五ケむらの内を歩き{あるき}
       雑穀野穀{むぎあわいもさつま」のたぐひと交易する。・・・・・

    八丈島に 流罪人が 送られてくるようになった 初期のころは 流人とはいえ 身分も高く 教養のある者が
   多かったと いうこともあって 島役所の取締りは すこぶる寛大で 格別 罪人扱いを するようなことは
   ありませんでした 島民も 流人に対して 好意を寄せ むしろ 歓迎する態度を 示した ようです

    流人が島に着くと 抽選で 村割りを決め 預かった村々では 農家五人組で 九尺二寸の
   小屋を作って住まわせ 一緒に働きさえすれば 何とか生活ができるように 取り計らったり 
   クンヌ( 内地の人 という意味 ) と 呼んで 国人 ・ 国奴 という 字をあて 親しく 交際もしました 
   絶海の孤島に住む 島民にとって 流人は 新しい知識を持ち 江戸のようすや 他の地方の事情 などに
   ついても 新鮮 な 情報 を 聞かせてくれる者 として 珍客 でも あった と 思われます

    泰平時には 島民は 流人達に 内地の話を聞いたり 酒宴に呼んでは 江戸で はやっている 歌 や 踊り
   などを教えてもらって 一緒に楽しみましたので 技芸に秀でている者 にとっては 
   強制的な労役のなかった 流人の生活は 比較的 のんびりした ものだったようです しかし 
   一旦 飢饉に 見舞われた 時には 田畑を持たぬ 流人は 手作りの品物を 食料と交換してくれる 人もなく 
   お金があっても 買うことができず 山や野で 野草を探すか 海辺で 魚貝や海藻を 採るしかなく ついには 
   毒草 を 食べて 死んだり 浪にさらわれて 溺死する者も ありました

 イ 水汲み女 
    流人に対して 付添人や子供が従うことは 許されていましたが 妻が同行することは許されて
   いませんでしたので 危険な船旅をして 流罪地についた流人は 身の回りの世話をしてくれる人もない 
   これからの 不自由な生活を思うと 心細く 絶望的な気持になったことでしょう

     * 水汲み女{みずくみおんな} ーーー 流人の 現地妻 のことで 
         公儀では 正式の妻とは認めなかったが 黙認されていた
         島人も 水汲み女のことを 軽蔑したり 差別したり することはなく 
                                   それまでと 同じように 付き合い 助けもしました

     * 機織り女{はたおりめ} ーーー 宇喜多一族の 現地妻 のことで
         長楽寺は 浄土宗であるにもかかわらず 妻帯が許されており
         その妻を 機織り女と呼んでいたので これにならったと思われる

    八丈島の女性達は 新人好み{あらびとごのみ} とも言われ 渡海者に対して 強い興味を示しました 
   この島は 古来 女護ケ島 と呼ばれていたように 女子の数が 常に 男子の数を 上回って いましたから 
   おのずと 女子が 男子によせる 感心も高く 好意の寄せ方も 並々ならぬものがあったようです

    島の女童{めならべ}の中には 流人の不遇な生活に 同情を寄せ 朝夕の水汲みや 食べ物の心配 などもして 
   身の回りの 世話をするうちに 夫婦の縁を結び 島民との間の 潤滑油の役割を 果たしたり その献身的な
   愛 によって とかく 虚無的で 自暴自棄的な気持に 陥りやすい 流人をなぐさめ 気持をやわらげ 
   生きる 希望 おも 持たせました

    八丈島で 流罪人による 凶悪な犯罪が 少なかったのも このような 水汲み女の かげの力が
   大きかったのではないでしょうか しかし 御赦免の沙汰 が あったときは ほとんどの流人が 妻 や 子 を
   島に 残して 故郷へ帰る というのが 悲しい現実でした そこで 水汲み女は 夫の 待ちこがれている
   赦免の知らせを 何より恐れ その沙汰の 一日も遅いことを 願わずには いられなかった ことと思います

 ロ 流人 (三人)
    八丈島の文化は 流人文化 とも 言われているほど 多くの流人 によって
             新しい知識 や 技術 が 伝えられ 離島である この島の発展に 大きく貢献しました

   * 【 宇喜多秀家 】 八丈島への流人 第一号
    ・1606年 ( 慶長11年 ) 敗戦の将  34才 ・・・・・ 大賀郷村預かり
                  長男 ー 孫九郎秀高
                  次男 ー 小平次秀次 と 従者を含む 一行 13名
    ・1655年 ( 明暦元年 ) 悲運な一生を終えた  84才

     豊臣家五大老の一人で 備前美作 四七万石の 領主 天下分け目の 関ヶ原の合戦で 豊臣秀吉の 恩義に
    報いるため 西軍の大将 として 徳川家康 と 戦って 破れた 仏門に入って ひたすら 豊臣太閤の 冥福を祈り 
    天気の良い日には 磯に出て 魚釣り を 友として 暮らした
     幕府は 流刑後も 反旗 を ひるがえされないよう 常に 目を光らせ その動向を 探り続けていた という 
    空しい 50年間 を すごし ついに 絶海の孤島 八丈島で その生涯を 閉じた 悲運の大名

   * 【 丹宗庄右衛門秀房 】 島酒の祖
    ・1853年 ( 嘉永6年 ) 唐物一件 ( 密貿易 ) 42才 ・・・・・ 大賀郷村預かり
    ・1868年 ( 明治元年 ) 赦免 
                      妻 美津 と 三男二女 の 待つ 故郷へ 帰る
                           後に 八丈島に残した 水汲み女 と 浦吉 を 呼び寄せた

     家業は回漕問屋で 庄右衛門は その九代目当主として 薩摩藩 公島津家の 御用を勤め 苗字帯刀 を 
    許されていた ( 島津藩は 赤字財政を 立て直すために 密かに 密貿易政策をとり 信頼できる 海の商人を
    秘密裏に 保護していた )

     八丈島は 農耕地も狭く 米の収穫も 僅かだった ところから 米 で 酒 を 造ることが できなかった ので 
    酒を好み 何につけても 酒の要な島民は この 酒造禁止令 に 困りはてており 
    庄右衛門 自身も 好物の酒が飲めず 不自由を していた そこで 故郷 薩摩から 焼酎に適した サツマイモ と
    焼酎造りの 器具一式 を 取り寄せ 甘藷から 酒を造る方法を伝え 島民から 大いに 感謝された 
    今も 島人は この 芋焼酎 の 製造 を 続け 「 島酒 」 と 呼んで 愛飲している

   * 【 八郎( 八老 ) 】 奥州の百姓 養蚕法 伝授
    ・1859年 ( 万延元年 ) 安政の大獄 の件に 連座 45才・・・・・ 末吉村預かり
    ・1862年 ( 文久2年 ) 赦免
    ・1868年 ( 明治元年 ) 太政官より 「 赦免 」 を受けて 帰国
                        明治維新への功労が 認められたものと 思われる

     表向きは 百姓ながら 零落はしていたが 由緒ある家の血を 受け継いでいる 
    養蚕の法 に 精通していたので 「 八老蚕飼伝法 」 を著し 村長に伝え 村人への 指導もしたので 
    末吉村 の 養蚕 は 活気づき 村 も 豊になった 
    ( 同じ頃 大賀郷村 預かりとなった 武州 の 百姓 伊三五郎 も 養蚕の法 を 村人に 伝えようとしたが 
                  村では   これを用いなかったため 養蚕法で 大きく 遅れを摂った ) 

 「 昔の八丈島 」 に ついて 
           個人的に興味を持った ほんの僅かな部分を ごく あっさり 簡単に書くに留めました

                                                            井上洋子 記       


 1p 八丈太鼓 の 由来 top  2p 八丈太鼓 由来の 「 個人的考察 」  3p 「 由来 以外 」 の 八丈太鼓
 4p 「 八多化 の 寝覺艸 」  5p 「 近藤富三 」 と 「 鶴窓帰山 」  6p 各種文献から 興味深い記録
 7p 「昔の八丈島」について   八丈島を訪れた 四人 と 一団体   ある機関誌より ー 転記


 へん子の日記  紅陶庵  あが八丈太鼓  八丈島の太鼓  八丈太鼓と私  写真

 くれない TOP に戻る