メモ
   ・・・ 〔幸せ〕の基準 ・・・                              2008年 3月 6日 記
         “ しあわせは いつもじぶんの こころがきめる ” 相田みつお

 豊かな財産・現金を持ち、高級・高額ブランド品で全身を飾り立てていても、心の中に吹く、冷たい風に苛まれている人がいる。山海の珍味を並べた贅沢な食卓を囲みながら、飢餓感から逃れられない人もいる。

 一方、雨や風がなんとか凌げる粗末な家に住み、洗いざらしの質素な服を着て、たった一匹のサンマを家族で分け合って食べながらも、心の中は充実し、幸福感に満ち溢れている人もいる。

 ある人が、‘ 幸せかどうか? ’ なんて、他人が判断出来るようなことではない。

 確かに、前者が、羨ましく妬ましいほど幸せそうに見えたり、後者が、同情を禁じ得ないほど哀れで不幸せそうに見えたり、することはあるが、、、 果たして、当人の心の中は ? ?  ?

 いかなる環境の元、苦境の中でも、ささやかな幸せは必ずある(用意されている)ものです。 

 ただ、その、ちょっとした幸せに気づいたり、感じたり、感謝の念までを持つことが出来るのは、、、
      ‘ 自分で幸せの基準をしっかり持っている人だけに許される特権 ’ と言って良いでしょう。。。

   ・・・ (+ と −) は、みんなに平等 ・・・                    2007年 6月21日 記
 一生(オギャー !と生まれて寿命が尽きるまで)の間に、味わう + ・ − の量はみんな(だれも)同じ!

 * 自分はいっつも不幸(ふしあわせ)。 悲しい・苦しい事ばっかり! 楽しいことなんか何にも無い!
      誰でも、生きているあいだに何度かはそんな風にしか思えない時期があるものです。

んな時の為に・・・、
 生きている間に味わう、+(幸福=喜び)と、−(不幸=悲しみ)の量は、
 【 一生を終える時 ・ 息を引き取る時には、ちゃんと帳尻が合うようになっている! 】ということを、
 ぜひ、覚えておいて欲しい!!!。

 長寿だとか、短命(幼くして・若くして、、、)だとかいうことにも、関係はありません。
 あなたの寿命の中で + と が、いつ ・ どんな形で、入れ替わるのか? ということも分かりません。
・・・ ということは ・・・、
   人生の途中を生きているにすぎないあなたが、早々(はやばや)と ‘ これから先もずっと不幸! ’
   決めつけ ・ 諦めて、、、 悲観したり、絶望的になったりするなんて、笑止千万!!!

 “ どん底(−)!!! ” ・・・ 苦しんでいるあなたへ
 * 「一生の間の + ・ − の分量は、みんな同じ!・平等!」ということを承知していれば、、、
   どうしょうもなく湧き上がってくる、心の波立ち・苛立ちも、少しは抑えらるような気がしませんか?
   他の人を羨んだり・妬んだり、、、 そんな無駄なことに心や身体をすり減らさないで!

 * いつ(何歳の時)?、 どんな形(精神的・金銭的)? で、 + が現れるか分からない・・・? 
   ・・・? なら、、、「その時(+)は、もう、すぐそこに来ているかも知れない!」と考えれば、
   かすかな希望も湧いて、血を吐くような苦しみ・悲しさも、何とか乗り切れそうな気がしませんか?

 “ 最高に幸せ(+)! ” ・・・ ウキウキ浮かれているあなたへ
 * その幸せな想いを、胸に深く・強く刻みつけて、、、 決して忘れてはなりません!!!
   そのうち巡ってくる − を乗り切らねばならない時の、心の拠り所・原動力となるように・・・!

 一生の中で − と + が短い周期で入れ替わって、帳尻を合わせる人も居れば、
   たった二、三回の交替で帳尻が合う人も居るのかも・・・。 さ〜て、あなたは? 私は???
 
   ・・・ “ 今 ” こそ ・・・                              2007年 6月 1日 記
 過去に‘ こだわる人 ’は、好きになれない。 過去に‘ こだわりすぎる人 ’は、はっきり言って嫌い。

 悲惨な過去を、現在の自分の情けなさの言い訳にしたり、過去の華々しい栄光で、現在の自分の情けなさを取り繕ったり、補おうとするなどという愚かなことはしないでください。

 ちょっと話したり、行動を共にすれば、自ずとあなたの人となりは見えてくるものです。
 自ずと見えてくる人となりというのは、過去の積み重ねの今のあなた・・・ 例え、消したい・忘れたいと思うような過去でも、、、魅力的な、今のあなたになるために、どうしても必要な試練だったのかも知れない。 例え、あなたが何も語らなくても、華々しい過去の栄光が透けて見えるのかも知れない。

 今、あなたと向き合っている私が、『なんて素敵な人でしょう!!!』と感じたり、「ぜひ、親しくなりたい!」と思えば、もう、それで充分じゃないですか。

 “ これまで ” が自分にとってマイナスだ・・・とか、プラスだ・・・とか、そういうことに囚われて、もし “ 今 ” を疎(おろそ)かに生きているとしたら、、、残念ながら “ これから ” も、細く暗い道が待っているだけ。
 やり直しの出来ない “ 過去 ”、戻ることの出来ない昔に、こだわるのは止めて、“ 今(現在) ” を大切に真剣に生きることで、きっと “ 未来 ” の道が明るいものになると信じて生きましょう

   ・・・ きなくさい ・・・ 〔約50年前の高校時代を思い出した延長で、、、〕        2007年 5月20日 記
 憲法改正の方向が性急になってきているようで(どのようになのか・どの方向になのかは、未だ不明だということは承知のうえ)、今のうちに(自由にものが言える間に)国民一人一人が自分の気持ち・考えを確かなものにし、ある意味、覚悟を固めておく必要があるように思う。
 ‘まだまだ’とか‘その内’とか‘まさか’とか‘誰かが’などと暢気にかまえている内に、ハッ!と気が付いた時はすでに遅く、、、みんなが同じ方向に一直線。 振り返ったり、はみ出したり、声を発することさえ許されない。。。
 「そんな時代が来るはずがない!」 「そんな時代は絶対に来ない!!」なんて思い込むことの恐さ・危険性をはっきりと自覚していよう!!! 
 歴史の上ではみんなが経験したこと・・・ 実に易々と路線に引き込まれ、走り出してしまったことを、、、

    “ 君死にたまふことなかれ ”            (旅順口包圍軍の中に在る弟を嘆きて)
                         與謝野 晶子
     あゝおとうとよ、君を泣く、
     君死(きみし)にたまふことなかれ、
     末(すえ)に生れし君なれば
     親のなさけはまさりしも、
     親は刃(やいば)をにぎらせて
     人を殺せとをしへしや、
     人を殺して死ねよとて
     二十四までをそだてしや。

     堺(さかい)の街のあきびとの
     舊家をほこるあるじにて
     親の名を繼ぐ君なれば、
     君死にたまふことなかれ、
     旅順の城はほろぶとも、
     ほろびずとても、何事ぞ、
     君は知らじな、あきびとの、
     家のおきてに無かりけり。

     君死にたまふことなかれ、
     すめらみことは、戰ひに
     おほみづからは出(い)でまさね、
     かたみに人の血を流し、
     獣(けもの)の道に死ねよとは、
     死ぬるを人のほまれとは、
     大みこゝろの深ければ
     もとよりいかで思(おぼ)されむ。

     あゝおとうとよ、戰ひに
     君死にたまふことなかれ、
     すぎにし秋を父ぎみに
     おくれたまへる母ぎみは、
     なげきのなかに、いたましく
     我子を召され、家を守(も)り、
     安しと聞ける大御代(おおみよ)も
     母のしら髪(が)はまさりぬる。

     暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
     あえかにわかき新妻(にひづま)を、
     君わするるや、思へるや、
     十月(とつき)も添はでわかれたる
     少女(おとめ)ごころを思ひみよ、
     この世ひとりの君ならで
     あゝまた誰をたのむべき、
     君死にたまふことなかれ。
 
 社会的な女性の地位はまだ低く、発言もままならなかった時代に、この胸をえぐるような、、、深く鋭い悲しみを通り越した祈りと怒りの詩を発表する強靱な精神力に圧倒されます。
 私の恋人・夫・子供・孫、、、が、「大切な人を守るために!」という大義名分の下で、どこかの国の、誰かの大切な恋人・夫・子供・孫、、、と、武器を持って対峙している(殺し合わなければならない)姿を、現実のこととして想像してみよう
、、、                                    
 待てよ・・・ ボタン一つで戦える時代では・・・《死ぬ》 《殺す》という実感が持てないのかも知れない。
 きっと、人間の想像力も乏しくなっているんだろう、、、ということは、心に訴えても響かない・届かないということなのか?
 それならば、、、 せめて、「死なないで!!!」 「行かないで!!!」 大声で叫びながら、人目も憚らず取りすがり、号泣できる世の中を大切にしなければ、、、。

   ・・・ くれない ・・・って?                               2007年 5月 6日 記 
             【 くれない 】 を、一言、いや、二言、で説明するとすれば、、、

* ひと〜つ 夕焼けに染まった空の色  * ふた〜つ ‘ 初恋 ’(島崎藤村)に詠まれた林檎の色

ひとつ、
人の一生と重ね合わせながら、夕陽が海面に沈んでいくのを見るのが好き。
 太陽が海面に近づくにつれ、薄暗くなってきていたはずの空が赤や朱や橙・茜・黄色と華やかな色に彩られ、太陽も一瞬輝きを増したかに思えるほど、、、やがてスルスル〜ッ!太陽は海中に没し、ほどなく辺りには夜のとばりが・・・(勿論、感動的な夕焼けばかりではない!というのが現実・・・!)。
 もう随分前から、自分が人生を終えるちょっと前の夕焼けの時期を生きていると感じています。

ふたつ、はるか昔の事なので、今更ここに書くのが面はゆく、ついついそのままになっていましたが、これを書かないと次に進むことができないような気がしてきましたので、今日は思い切って書きましょう。
 高校の国語の時間はクラスのみんなが楽しみにしている時間。情熱的な鈴木先生は教科書にはない小説や詩歌を、私達女子高生に感情を込めて読み聞かせ、奥深い解釈へと導いてくださいました。詩は読むだけではなく、歌ったりもしましたから、隣の教室から苦情がきたり、涙を抑えられなくなったり、、、大げさに言えば、魂を揺すぶられ、心の奥深くの襞まで染み渡り、、、未だにその頃教わった詩や歌に出合うと思わず胸が熱くなってしまいます。影響を強く受けた私は、以後、自称文学少女となって、手当たり次第本を読みあさる事となりました。(何分、多感な年頃でしたから・・・)

       “ 初 恋 ”                     島崎藤村
    まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 
    前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

    やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
    薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

    わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき 
    たのしき恋の盃を 君が情けに酌みしかな

    林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は 
    誰が踏みそめしかたみとぞ 問ひたまふこそこひしけれ

                                       
つまり、
 もし、希望が叶うなら、、、? 
    燃えるような夕焼けの中  人生の終わりに向かって、
    悔いのないように生きたい できれば輝いていたい 最後まで恋する心を持ち続けたい 
    何とも図々しい願いを込めた結果・・・・・【 くれない 】ということになりました。